シティ・オブ・ニューヨーク (客船)
シティ・オブ・ニューヨーク (客船) | |
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基本情報 | |
所有者 | インマン・ライン |
建造所 | J. & G. Thomson[1][2] |
経歴 | |
進水 | 1888年3月15日 |
就航 | 1888年8月1日 |
その後 | 1922年に解体 |
要目 | |
総トン数 | 10,508トン(29,755 m³) |
排水量 | 17,270トン |
全長 | 560フィート(171m) |
全幅 | 63フィート(19.3m) |
機関方式 | 蒸気機関、スクリュー2軸、28,000馬力 |
速力 | 20ノット |
旅客定員 | 1290 |
シティ・オブ・ニューヨーク(SS City of New York)後のニューヨーク(SS New York)は、インマン・ラインの所有したオーシャン・ライナーで、後にアメリカン・ライン、アメリカ海軍へ移籍した。シティ・オブ・ニューヨークはスコットランド・クライドバンクのジョン・ブラウン・アンド・カンパニーで、1888年3月15日に進水した。処女航海は同年8月1日で、1892年にブルーリボン賞を受賞、翌年にキュナード・ラインのカンパニアに記録を破られるまでそれを保持した。シティ・オブ・ニューヨークは34年間使用され、1922年にスクラップとなった。
歴史
[編集]シティ・オブ・ニューヨークは1888年3月15日に進水し、5ヶ月後にリバープール - ニューヨーク間の処女航海を行った。姉妹船に当時世界最大、最速のシティ・オブ・パリが存在し、シティ・オブ・ニューヨークは最大ではなかったものの、非常に豪華であった。水道には温水と冷水の2種類が存在し、換気設備や電気照明、1等客のデッキには図書館や喫煙室、食堂にはガラス照明のドームがあった。
1892年、シティ・オブ・ニューヨークは姉妹船シティ・オブ・パリの記録を破りブルーリボン賞を受賞した。その後、シティ・オブ・ニューヨークはアメリカン・ラインに移籍し、ニューヨークと改名した。その後ニューヨークは5年間ニューヨーク - サウサンプトン間の定期船として使用された。
ハーバードとして
[編集]1898年、アメリカ合衆国はスペインに宣戦布告し、アメリカ政府はニューヨークを武装商船として徴用した。この際、船名をハーバード(USS Harvard)と改名し、開戦をきっかけに1898年4月26日から使用された。戦後は1898年9月2日に任務を解かれた。
客船として復帰
[編集]1899年1月、ニューヨークは再び民間船としてニューヨーク - サウサンプトン間の定期船となった。その航海の途中でエンジンが故障し、3ヶ月間修理を受けた。その際に改装され、機関部を修理し、3本あった煙突は2本に減らされた。そして1903年4月14日に再び航路についた。
1912年4月10日、客船オーシャニックのそばに停泊していたニューヨークは、処女航海に出発しようとしていたタイタニックのスクリューの水流に巻き込まれ、衝突しそうになった。このときタイタニックの船長エドワード・スミスは、すぐにスクリューを逆回転させ、タグボートを利用して両船を引き離したため、辛うじて衝突は免れた。
1913年、ニューヨークは再び改装を受け、2等船室と3等船室のみになった。そして航路も変更され、通常のサウサンプトン - ニューヨークからリヴァプール - ニューヨーク間となった。
プラットスバーグとして
[編集]1918年、アメリカ合衆国がドイツに宣戦布告したのをきっかけに、ニューヨークは再び徴用された。その際、プラットスバーグ(USS Plattsburg)と改名した。
その後
[編集]第一次世界大戦の後、ニューヨークは1920年に客船として復帰した。9ヶ月間アメリカン・ラインにとどまったが、その後ポーランドの企業に移籍した。改名はせずに使用されたが、所有していた会社が倒産したため、1922年にアイリッシュ・アメリカン・ラインに移籍した。しばらくはその会社が所有していたが、再びユナイテッド・トランスアトランティック・ライン、アメリカン・ブラック・シー・ラインに移籍した。最後の航海は1922年6月10日で、ニューヨーク - ナポリ - コンスタンティノポリス間を航行した。その後にスクラップとなった。
その後、タイタニックに関連した映画で、度々ニューヨークが出てくることがあった。
脚注
[編集]外部リンク
[編集]記録 | ||
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先代 シティ・オブ・ローマ |
世界最大の客船 1888年~1893年 |
次代 カンパニア |
先代 シティ・オブ・パリ |
ブルーリボン賞 (船舶)(東回り航路)保持船舶 1892年~1893年 |