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「妻木城」の版間の差分

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== 外部リンク ==
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* [http://www.tumagijyou.jp/ 妻木城址の会]
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* [http://www.its-mo.com/map/?lat=127040959&lon=493912475&lvl=16& 妻木城/マップ]
* [http://www.d3.dion.ne.jp/~a_tag/mino_siro_12.htm 妻木城址]
* [http://www.d3.dion.ne.jp/~a_tag/mino_siro_12.htm 妻木城址]
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2010年2月22日 (月) 12:51時点における版

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妻木城
岐阜県
本丸の石垣
本丸の石垣
城郭構造 山城
築城主 土岐頼重
築城年 暦応2年(1339年
主な城主 土岐氏、妻木氏
廃城年 万治元年(1658年
遺構 石垣土塁堀切曲輪井戸跡、碑
位置 {{{10}}}
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妻木城(つまきじょう)は現在の岐阜県土岐市に存在した山城である。

概要

標高409mの山頂に築かれた山城である。この城は明智氏の所領であったが、後には明智氏一族である妻木氏居城となって、次第に整備されていった。また妻木城主は代々と陶器の生産を奨励し、織部焼志野焼等に代表される現在の美濃焼基礎を作った領主として知られている。

歴史・沿革

南北朝時代

暦応2年/延元4年(1339年土岐頼貞の孫である土岐頼重が築城した。土岐氏が衰退してからは明智氏の所領になり、明智氏一族である妻木氏居城となった。

戦国時代

天正10年(1582年本能寺の変の後に起きた山崎の戦いの際には当時の城主である妻木広忠明智軍に属したが、敗北したため自刃した。明智光秀正室である妻木煕子妻木広忠の娘である。その後妻木頼忠が跡を継いだ。 その頃森長可土岐郡恵那郡内の反抗する勢力の掃討をし、長可は手始めに高山城平井頼母に使者を送り、城を明け渡すように要求したが、これに応じなかったため自刃に追いこみ、その後肥田氏を入城させた。次に妻木城主妻木頼忠にも、従うよう使者を送ったが、頼忠は拒否したので攻めさせた。頼忠は城の兵を集めて奮戦したが、勝てる見込みがなかったので和議にもちこみ、長可に従うようになった。

東濃地方はもともと遠山氏土岐氏諸将が支配していたが、戦国時代森氏らに領土が追われた。それを徳川家康が守ってくれたこともあって、慶長5年(1600年関ヶ原の戦いの際には家康側につき、頼忠はこの地域を守るよう命じられ、父である妻木貞徳と共に岩村城主の田丸直昌と戦った。田丸直昌家臣である田丸主水は妻木城から近い所にを築き、諸将の行動を封じ鎮圧しようと試みたが、妻木家頼伊保藩主である丹羽氏信らを誘って田丸領の各所に放火して対抗した。妻木家頼高山城の城攻めを図ったが、田丸軍は高山城に火を放ち土岐へ退却して立て籠もった。妻木家頼は田丸軍の退路を完全に遮断するため現在の瑞浪市寺河戸町付近にを築いた。このほか、田丸領内である明知城小里城岩村城支城となっていたので城番が居城していたが、城主である遠山利景小里光親妻木家頼らの支援を受けて、まず初めに明知城小里城の攻撃を始めて明知城を、翌日に小里城を奪回することに成功し、遠山利景小里光親は城に戻ることができた。その後、岩村城を攻めようとしたが、攻略難落の城なので苦戦していたが、しばらくすると関ヶ原の戦いが終わり、東軍の勝利によって城主田丸直昌も東軍に降り岩村城を守備していた田丸主水遠山利景に城を明け渡した。

その戦功により慶長6年(1601年)に頼忠徳川家康から改めてこの地域を所領として与えられた。その頃にはこの城はほとんど使用されず、妻木氏は山麓にある居館にいた。

江戸時代

敵からの攻撃を防ぐため城を攻めにくい山の上に設けていましたが全国が統一されると、妻木頼忠は山の上での生活が不便だったので、山麓の北に屋敷を築きそこに住み始めた。元和年間(1615年-1624年)頃にはこの城の機能は終えて、山麓にある妻木城士屋敷が主に機能するようになった。その後妻木家頼の子の妻木頼次が跡を継いだ。土岐郡内7500の領主だったが、跡継ぎがいなかったので万治元年(1658年)に頼次が死去すると、妻木氏は3代で廃絶した。

現代

現在は本丸二の丸跡地に小さな神社が置かれている。妻木城の登城口には駐車するスペースがあり、石垣曲輪土塁等の遺構も整備されている。建造物は残っていない。山麓の北側に妻木城士屋敷があるが、そこの石垣等の遺構も整備されており、駐車するスペースも完備されている。2つとも岐阜県史跡に指定されている。妻木城への登城口は、妻木城士屋敷跡の右脇から南へ伸びる道を進み、その終点から城山へ登っていくルートと名岐国際ゴルフ場の妻木口を入ってすぐ、右へと伸びる林道を進み、その奥にある広場から登るルートの2つある。


妻木城士屋敷 (つまきじょうさむらいやしき)

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妻木城士屋敷
岐阜県
城郭構造 屋敷
築城主 妻木頼忠
築城年 慶長6年(1601年
主な城主 妻木氏
廃城年 万治元年(1658年
遺構 石垣土塁、移築門、碑
位置 {{{10}}}
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概要

妻木城の山麓の北にあった屋敷で、岐阜県史跡に指定されている。妻木氏が滅亡するまでここが本拠となった。近くにある崇禅寺に移築された門があり、妻木城の歴代城主のがある。

歴史

慶長5年(1600年関ヶ原の戦いの際に戦功を挙げた妻木頼忠は、慶長6年(1601年)に徳川家康から改めてこの地域を与えられた。その際に妻木城の麓にこの屋敷を建てた。その後、妻木城からこの屋敷に拠点を移し、主にここが機能するようになった。万治元年(1658年)に妻木頼次が死去すると跡を継ぐものがいなかったので廃城となった。

城主一覧

ギャラリー

アクセス

交通機関


所在地

岐阜県土岐市妻木町本郷

関連項目

外部リンク

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