コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「不知火光右衛門」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
5行目: 5行目:
----
----
[[画像:Shiranui and Kimenzan.gif|thumb|200px|不知火(左)の構えは現在の雲竜型。右は[[鬼面山谷五郎]]]]
[[画像:Shiranui and Kimenzan.gif|thumb|200px|不知火(左)の構えは現在の雲竜型。右は[[鬼面山谷五郎]]]]
'''不知火 光右衛門'''(しらぬい みつえもん(読みは'''こうえもん'''説あり)、[[文政]]8年([[1825年]]) - [[明治]]12年([[1879年]])[[2月24日]])とは、[[財団法人]][[日本相撲協会]]が認定している第11代[[横綱]]である。本名は原野→近久峰松。[[福岡県]][[山田市]](現[[嘉麻市]])出身。身長177cm、体重120kgと伝わる。この項目間違い、正しくは肥後国菊池郡陣内村出身、しばしば不知火光五郎(現福岡県嘉麻出身、余りの強さに毒を盛られて暗殺されたという)と混同される。
'''不知火 光右衛門'''(しらぬい みつえもん(読みは'''こうえもん'''説あり)、[[文政]]8年([[1825年]]) - [[明治]]12年([[1879年]])[[2月24日]])とは、[[財団法人]][[日本相撲協会]]が認定している第11代[[横綱]]である。本名は原野→近久峰松。肥後国菊池郡陣内村出身。身長177cm、体重120kgと伝わる。
しばしば不知火光五郎(現福岡県嘉麻出身、余りの強さに毒を盛られて暗殺されたという)と混同される。


2つの[[横綱土俵入り]]のうち、[[雲龍型]]の考案者であるといわれている。
2つの[[横綱土俵入り]]のうち、[[雲龍型]]の考案者であるといわれている。

2010年5月22日 (土) 22:46時点における版

不知火 光右衛門(しらぬい みつえもん)は大相撲の力士。

  1. 最高位は大関。本姓は平野。安永4年(1775年)生、文化元年7月14日1804年8月19日)没。
  2. 第11代横綱。下記で詳述。

不知火(左)の構えは現在の雲竜型。右は鬼面山谷五郎

不知火 光右衛門(しらぬい みつえもん(読みはこうえもん説あり)、文政8年(1825年) - 明治12年(1879年2月24日)とは、財団法人日本相撲協会が認定している第11代横綱である。本名は原野→近久峰松。肥後国菊池郡陣内村出身。身長177cm、体重120kgと伝わる。 しばしば不知火光五郎(現福岡県嘉麻市出身、余りの強さに毒を盛られて暗殺されたという)と混同される。

2つの横綱土俵入りのうち、雲龍型の考案者であるといわれている。 しかし、不知火と第10代横綱の雲龍久吉の土俵入りが立派であったため後世に名が残されたとの見方もある。(雲龍久吉を参照。)

色白でかなりの美男子であったといわれているが、錦絵は確かにそうだが写真で見ればなぜそうなったのか疑問符がつく。

同郷の先代不知火(諾)の弟子となり、大坂相撲で修行する。のちに江戸へ出て境川門下となる。殿(しんが)り峯五郎の四股名嘉永3年11月場所に二段目付け出しで初土俵を踏む。肥後細川候のお抱えとなって安政3年11月入幕。翌年に不知火光右衛門と改名。文久2年2月大関昇進。翌年3月に横綱免許を受けた。晩年は古巣の大坂相撲に戻って、下の名を諾右衛門と改めて土俵入りのみを務めた。年寄としての初代不知火である。

現役時の戦績

  • 幕内在位 27場所
  • 幕内成績 119勝35敗15分9預77休、勝率.773。優勝相当成績3回。

関連項目


');