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'''多久 茂矩'''(たく しげのり、生没年不詳)は、[[江戸時代]]の人物。[[龍造寺四家]]のつ[[多久氏]]、3代目多久邑主。[[多久茂辰]]の子。長門守。室は[[神代常利|神代岡之助常利]]の娘の菊子。実子に[[鍋島清信]](姉川鍋島家・[[鍋島清長]]養子)、養子に[[多久茂文|茂文]]([[鍋島光茂]]の三男)。
'''多久 茂矩'''(たく しげのり、生没年不詳)は、[[江戸時代]]前期[[佐賀藩]]士。[[龍造寺四家]]のつ[[多久氏]]、3代目多久邑主。[[多久茂辰]]の子。長門守。室は[[神代常利|神代岡之助常利]]の娘の菊子。実子に[[鍋島清信]](姉川鍋島家・[[鍋島清長]]養子)、養子に[[多久茂文|茂文]]([[鍋島光茂]]の三男)。


父の茂辰が[[正保]]3年([[1646年]])、返済不能な私借銀を作ったとして[[佐賀藩]]の請役を免ぜられたが、[[寛文]]12年([[1672年]])、[[鍋島茂紀]]とともに(のちに[[諫早茂元]]も任じられる)請役となり、貞享4年(1687年に請役が1人となり諫早茂紀が請役となるまで務めた。また、雑木に覆われた[[唐津往還]]を切り開き、宿場を設けるなどと地域整備も行った。[[貞享]]3年([[1686年]])、養子茂文に家督を譲った。
父の茂辰が[[正保]]3年[[1646年]]、返済不能な私借銀を作ったとして[[佐賀藩]]の請役を免ぜられたが、[[寛文]]12年([[1672年]])、[[鍋島茂紀]]とともに(のちに[[諫早茂元]]も任じられる)請役となり、貞享4年(1687年に請役が1人となり諫早茂紀が請役となるまで務めた。また、雑木に覆われた[[唐津往還]]を切り開き、宿場を設けるなどと地域整備も行った。[[貞享]]3年([[1686年]])、養子茂文に家督を譲った。


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[[Category:佐賀藩の人物]]

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2012年3月10日 (土) 18:24時点における版

多久 茂矩(たく しげのり、生没年不詳)は、江戸時代前期の佐賀藩士。龍造寺四家の一つ多久氏、3代目多久邑主。多久茂辰の子。長門守。室は神代岡之助常利の娘の菊子。実子に鍋島清信(姉川鍋島家・鍋島清長養子)、養子に茂文鍋島光茂の三男)。

父の茂辰が正保3年(1646年)、返済不能な私借銀を作ったとして佐賀藩の請役を免ぜられたが、寛文12年(1672年)、鍋島茂紀とともに(のちに諫早茂元も任じられる)請役となり、貞享4年(1687年に請役が1人となり諫早茂紀が請役となるまで務めた。また、雑木に覆われた唐津往還を切り開き、宿場を設けるなどと地域整備も行った。貞享3年(1686年)、養子茂文に家督を譲った。

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