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聖座宣言において参考になるのは、[[教皇ピウス9世]]による聖母の[[無原罪の御宿り]]、[[教皇ピウス12世]]による[[聖母被昇天]]の教理決定である。それぞれ、''[http://www.papalencyclicals.net/Pius09/p9ineff.htm Ineffabilis Deus]'' (1854年12月8日)、 ''[http://www.papalencyclicals.net/Pius12/P12MUNIF.HTM Munificentissimus Deus]'' (1950年11月1日)の[[大勅書]](羅:bulla, 英: |
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bull)で公布された。これらの教理において教皇の不可謬性が行使されていることは、一般的に認められている。大勅書とは、主に列聖宣言や教理宣言に扱われる、教皇が発する最も厳粛な公文書の一種である。しかしながら、大勅書の公文書としての性質が教会法的に明らかになるのは、1431年ごろ[[教皇エウゲニウス4世]]による[[教皇文書]]の分類の制定以降である[3]。そこで、まず教皇文書の分類の制定以前において、不可謬説に関する歴史的考察を行う。ただし、[[異端審問]]や[[十字軍]]に関する教会規律の制定に関しては議論の対象外とする。 |
bull)で公布された。これらの教理において教皇の不可謬性が行使されていることは、一般的に認められている。大勅書とは、主に列聖宣言や教理宣言に扱われる、教皇が発する最も厳粛な公文書の一種である。しかしながら、大勅書の公文書としての性質が教会法的に明らかになるのは、1431年ごろ[[教皇エウゲニウス4世]]による[[教皇文書]]の分類の制定以降である[3]。そこで、まず教皇文書の分類の制定以前において、不可謬説に関する歴史的考察を行う。ただし、[[異端審問]]や[[十字軍]]に関する教会規律の制定に関しては議論の対象外とする。 |
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===教皇文書に関する制定以前=== |
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教皇不可謬性で最も問題に挙げられる頻度が高いものは、[[教皇ホノリウス1世]]([[625年|625]]-[[638年]])の[[単意説]]に関する誤謬である([[ホノリウス問題]])。ホノリウス1世はコンスタンティノープル総大司教セルギオスに宛てた単意説を認める書簡に関して、[[680年|680]]-[[681年]][[第3コンスタンティノープル公会議]]の後、[[教皇レオ2世]]の裁決より有罪となった。今日定説とされている見解のホノリウス1世の断罪理由は、レオ2世による判決内容[2]から判断して、[[異端|異端者]]としてではなく信仰問題に対する怠惰ということになっている[4]。しかし、誤謬があったことには相違ないため、聖座宣言以外での誤謬であったという解釈があり[5]、それはほぼ一般的であるといえる。 |
教皇不可謬性で最も問題に挙げられる頻度が高いものは、[[教皇ホノリウス1世]]([[625年|625]]-[[638年]])の[[単意説]]に関する誤謬である([[ホノリウス問題]])。ホノリウス1世はコンスタンティノープル総大司教セルギオスに宛てた単意説を認める書簡に関して、[[680年|680]]-[[681年]][[第3コンスタンティノープル公会議]]の後、[[教皇レオ2世]]の裁決より有罪となった。今日定説とされている見解のホノリウス1世の断罪理由は、レオ2世による判決内容[2]から判断して、[[異端|異端者]]としてではなく信仰問題に対する怠惰ということになっている[4]。しかし、誤謬があったことには相違ないため、聖座宣言以外での誤謬であったという解釈があり[5]、それはほぼ一般的であるといえる。 |
2004年3月24日 (水) 11:39時点における版
教皇不可謬説(きょうこうふかびゅうせつ)とは、ローマ・カトリック教会の教理のひとつ。 ローマ教皇(教皇)が聖座宣言によって全教会が守るべき信仰と道徳に関する教理を決定するとき、神が使徒ペトロに約束した助力によって、教皇に不可謬性(すなわち、その決定は修正不能)が与えられる説。 ただし、教会の規律と統治の裁治権に関する問題は教皇首位説が成り立つだけで、不可謬性の対象にはならない。
この教理は、第1ヴァティカン公会議の1870年7月18日第4会期において、教義憲章 Pastor Aeternus として宣言された(賛成533票、反対2票で採択)[1]。
カトリック教会における教皇不可謬性の意義
カトリック教会にとって、教会の意味は一つの信仰(つまり教理)を共有する集団ということである。 Pastor Aeternus の冒頭部分では、そのような教会の意義が主張されている。これは、カトリック教会以外のキリスト教教派一般的に共通していることである。一神教のキリスト教にとって、教会の正当性または教会に属する意義や必然性を明らかにする必要がある。教会に属する必然性がなければ、他の宗教に属することを許容してしまい、一神教としての性質を失ってしまうからである。
教皇不可謬性に関して言えば、教会の発生当初から明らかであったわけではない。また、キリスト教の創始者であるイエス・キリストまたその弟子(使徒)らが、今日キリスト教の聖典になっている聖書などに明示的証言として残されているわけではない(ただし、カトリック教会側の聖書を引用した神学的説明は存在する)。教皇不可謬性は、カトリック教会の歴史的軌跡の中で導かれた命題である。言い換えれば、カトリック教会の歴史においては、何らかの宗規つまり教理を決定する際、最終的にローマ教皇を基準として選択してきたわけである。 一方、カトリック教会と分裂した他教派に関しては、各教派なりの教義の決定基準がある。東方正教会の場合は、はじめの7回の公会議、プロテスタント諸教派で特に原理主義の場合は聖書などを最終的な教理決定の基準としている。これら東方正教会やプロテスタント諸教派の場合も同様に、それぞれの歴史的に歩んだ軌跡の中で選択した基準であると言える。
これら、教理決定の基準とは、教理の論理体系の公準に相当する。すなわち、各教理(または定理)の最終的な根拠となるもので、それ自体がほぼ自明になる。従って、カトリック教会にとって教皇不可謬性は公準に相当する。東方正教会やプロテスタント教会の場合は、それぞれ公会議、聖書に相当すると考えてよい。特にプロテスタントの原理主義にとっての公準である聖書無謬説は、聖書の内的証明という言葉を用いて、自明であるという意識をしばしば緩和させることがある。しかし、結局は自明であることの念押しに過ぎないと思われる。
聖書による見解
ここでは、カトリック教会の神学から、教皇不可謬性に関する聖書からの見解の一部を紹介する。ただし、 Pastor Aeternus からの引用ではないので、特に正式見解というものではない。 カトリック教会では、教皇不可謬性の証明として、一般に聖書から以下の箇所が引用される。
- マタイ福音書 16章18節
- ヨハネ福音書 14章15-17節
- 第1テモテ 3章14-15節
マタイ福音書16章に関しては、教皇の首位権を示すために引用される箇所であり、残りのヨハネ福音書、第1テモテについては、教会が何らかの方法で信仰の誤謬から免れる趣旨を示すために引用されれる箇所である。
教会が信仰の誤謬から免れなければならないのは、一神教において自明と思われるが、教派によって必ずしも同じ意見ではない。一般に、東方正教会やカトリック教会は、教会に信仰の誤謬が何らかの方法で免れるべきであると考える。もし教会の信仰の誤謬を許せば、他教派や他宗教の信仰を認めることになるからである。そのため、神として認める聖霊が弁護者として世の終わりまで教会と共に存在し(ヨハネ福音書 14章15-17節)、そのため教会は神の家である神殿であり真理の柱であり(第1テモテ 3章14-15節)と考える。
次に、マタイ福音書 16章18節についてであるが、カトリック教会はこの誤謬を免れるべき教会が岩(πετρα)であるペトロ(Πετρος)の上に建っているというふうに解釈する。これによって、教会が誤謬を免れる具体的手段はペトロに賦与された権威だということである。ただし、マタイ福音書の岩がペトロを指しているかどうかは、他の教派から幾らか批判されている。例えば、ギリシャ語のΠετροςは岩の意味ではなく石であるという説がある。 しかし、Πετροςはイエスが最初の弟子のシモンのために考案した岩に因んだ人名という説があり、またペトロは他の使徒らからアラマイ語で岩を意味する「ケファ」というあだ名で呼ばれていたのも事実である(ヨハネ福音書 1:42、第1コリント)。 また、古代教父の著書の中で、ここでいう岩(πετρα)はペトロではなく信仰宣言であると解釈されている場合がある。しかし、エペソ 2章20節にあるように、使徒や預言者の上に教会が建っているという解釈は存在する。ただし、この解釈を適用すると、教会は使徒ペトロの上だけに建てられたのではないということになる。または、信仰宣言が聖座宣言(ex cathedra)を指すと考えることも可能かもしれない。
歴史的考察
背景
教皇不可謬性の定義の所在は、第1ヴァティカン公会議で採択された Pastor Aeternus に他ならない。この定義で重要になるのは、さらに聖座宣言(ex cathedra)に関する定義である。憲章の中で、聖座宣言の定義は教皇の持つ何らかの最高の権威の1つであるのは明確ではあるが、具体的にどういう場合にその権威が成り立つのかが明確ではない。教皇は信仰と道徳に関する教理について、様々な文書を公布するが、何をもって憲章で述べられている聖座宣言に相当するか具体的には明確ではないからである。以下は、教義憲章の聖座宣言が定義されている部分の和訳である[2]。
- 我々は神的啓示された教義として教戒し定義する。ローマ教皇が聖座宣言(ex cathedra)から語るとき、すなわち全キリスト教徒の司牧者かつ教師としての職権を行使するとき、また至高の使徒的権威によって全教会が守るべき信仰または道徳に関する教義を定義するとき、聖ペトロに約束された神的助力によって、信仰または道徳に関する教義の定義において、神なる贖い主がご自分の教会が享受するように望んだ不可謬性を教皇は所有している。それ故、斯様な教皇の定義は、それ自体が、教会の同意によってではなく、また改正不能(irreformables)である。†
教皇文書について
聖座宣言において参考になるのは、教皇ピウス9世による聖母の無原罪の御宿り、教皇ピウス12世による聖母被昇天の教理決定である。それぞれ、Ineffabilis Deus (1854年12月8日)、 Munificentissimus Deus (1950年11月1日)の大勅書(羅:bulla, 英: bull)で公布された。これらの教理において教皇の不可謬性が行使されていることは、一般的に認められている。大勅書とは、主に列聖宣言や教理宣言に扱われる、教皇が発する最も厳粛な公文書の一種である。しかしながら、大勅書の公文書としての性質が教会法的に明らかになるのは、1431年ごろ教皇エウゲニウス4世による教皇文書の分類の制定以降である[3]。そこで、まず教皇文書の分類の制定以前において、不可謬説に関する歴史的考察を行う。ただし、異端審問や十字軍に関する教会規律の制定に関しては議論の対象外とする。
教皇文書に関する制定以前
教皇不可謬性で最も問題に挙げられる頻度が高いものは、教皇ホノリウス1世(625-638年)の単意説に関する誤謬である(ホノリウス問題)。ホノリウス1世はコンスタンティノープル総大司教セルギオスに宛てた単意説を認める書簡に関して、680-681年第3コンスタンティノープル公会議の後、教皇レオ2世の裁決より有罪となった。今日定説とされている見解のホノリウス1世の断罪理由は、レオ2世による判決内容[2]から判断して、異端者としてではなく信仰問題に対する怠惰ということになっている[4]。しかし、誤謬があったことには相違ないため、聖座宣言以外での誤謬であったという解釈があり[5]、それはほぼ一般的であるといえる。
次に、1414-1418年コンスタンツ公会議に関する問題を取り上げる。コンスタンツ公会議は、教皇グレゴリウス12世の退位の通告を受理した後、マルティアヌス5世を新教皇として選出した。この公会議で問題になるのが、1415年4月6日に決議した Sacrosancta および Heac sancta の公会議首位説に関する教令である。選出されたマルティアヌス5世は1418年2月22日、大勅書 Inter cunctas を公布し、「公会議で満場一致で決議されたすべての事柄を承認する」と宣言し[6]、後公会議は閉会した。しかし、この公会議首位説に関する決議は、後のフィレンツェ公会議で修正される。従って、ここでも不可謬性が成り立たたず、たとえ大勅書においてもエウゲニウス4世による制定以前は聖座宣言ではない場合があるという結論になる。
教皇文書に関する制定以降
まず文芸復興時代の教皇インノケンティウス8世の大勅書 Summis desiderantes affectibus につて触れておく。 この大勅書は、あの悪名高い魔女裁判を誘発したもので、現在のカトリック教会における一般的解釈では、あくまで教会規律としての勅令を目的とし、教理的性質を帯びていないとされている[7]。しかし、内容的には、若干漠然とした魔術に関する非実証的な説の記述が目立つが、魔術に対する訓戒の表現の一環と捉えることも可能である。何故ならば、キリスト教において、魔術が信仰上の誤りであることは、ほぼ自明だからである。
次に、トリエント公会議に関して述べなければならない。この公会議によって、教皇不可謬説以外の殆どの教理が決定されたためである。中でも、秘跡に関する教令が大部分を占めている。 トリエント公会議は、ピウス4世の大勅書 Benedictus Deus で承認され、さらに大勅書 Iniunctum nobis (1564年11月13日)において、トリエント公会議に関する信仰宣言がなされた。この大勅書は、第1バチカン公会議でも承認された。これは、少なくともこの大勅書が(仮に他の大勅書一般とは言えないとしても)第1ヴァティカン公会議でいう聖座宣言の1つとしての意味になると判断できる。以下が、 Iniunctum nobis の和訳の一部である[2]。
- 聖なるカノンと諸公会議、特に聖なるトリエント公会議によるすべての伝承、定義、宣言を疑いなく受入れかつ宣言する。これに反するすべてのこと、および教会によって非難され、排斥され、破門されたすべての異端を、同じように非難し、排斥し、破門する。†
第2ヴァティカン公会議について
以上のことを踏まえて、最後に第2ヴァティカン公会議ついて検証を試みる。ここで問題になるのは、第2ヴァティカン公会議以前に聖座宣言された信仰と道徳に関する教理に対する、不整合または意図的な改正が見出されるかどうかである。本稿では、中でも全8章に及ぶ膨大な公文書である「教会憲章」について議論を試みる。
「第2章 神の民について」の16節において、ある条件の下で、キリストの福音ならびに教会を知らないが、聖寵の働きのもとに努力する人々は、永遠の救いに達することができると述べられている[8]。これは、上述のトリエント公会議において、「洗礼は救いのために必要ではないと言う者は排斥される」と宣言した、「秘跡一般および洗礼、堅信についての教令」(1547年3月3日)[2]と矛盾している。
また、「第3章 教会の聖職位階制度、特に司教職について」の29節では、「聖職位階の下位の段階に助祭があり、・・・」と述べられている[8]。これは、トリエント公会議の副助祭を上位聖職位階に属すると定義した「叙階の秘跡についての教令」(1563年7月15日)を改正するものである。しかし、このトリエント公会議の教令では次のように宣言している[2]。
- 叙階または聖職への叙階は、主キリストによって制定された真かつ固有の秘跡ではない;または、教会の事柄について無知な人によって考案された、人間の虚構の一種である;または、神の言葉と諸秘跡の奉仕者を選出する儀式の一種に過ぎない、と言う如何なる者は排斥される。†
つまり、教理上の改正ではなく単なる教会法としての改正と考えるのは極めて難しい。 また、これは第2ヴァティカン公会議以降の教皇パウロ6世の自発教令 Ministeria quaedam (1972年)についてであるが、この自発教令によって下位の聖職位階が廃止された。しかし、トリエント公会議の同教令の第2章では「七つの聖職階級」という表題が付いており、単なる教会法上の改正と考えるのはかなり困難と思われる。ただし、自発書簡は聖座宣言に相当しないが、現在この改正は信仰上の普及がかなり進んでいる。
さらに、教会憲章の同章22節において、公会議を教皇によって確認されたあるいは少なくとも受け入れられたものでなければ公会議ではないと定義した上で、25節では公会議に不可謬性があると述べられている[8]。しかしながら、上述のコンスタンツ公会議の事例から判断し、このことはカトリック教会の史実に反していることが明らかである。以上、第2ヴァティカン公会議は教皇不可謬性を覆していることになり、すなわち第1ヴァティカン公会議の教義憲章 Pastor Aeternus の「それ自体が、改正不能(irreformables)である」という命題の否定になる。
今後の展望
第2ヴァティカン公会議は特に聖座宣言によって不可謬的性質が確定したとは言えないが、 閉会から半世紀が経とうとしている現在、公会議の理念は典礼や聖職者の教導の中で深く浸透しており、 実質的に変更不可能な状況といえる。従って、今後カトリック教会の存在意義とも言える教皇不可謬性が科学的かつ実証的に否定される可能性が極めて高いと言える。
†英訳(原文はラテン語)から和訳したものを掲載した。ラテン語からの直接の和訳は文献[2]を参照。
エキュメニズム問題について
エキュメニズムの意義
歴史的考察において、第2ヴァティカン公会議以降、教皇不可謬性が覆る状況にあることを述べたが、その発端はエキュメニズム問題(特に東方諸教会とのエキュメニズム)にあると思われる。ただし、エキュメニズムは教皇不可謬性にとって重要な問題であり、何となれば教皇不可謬性の前提 となる教皇首位権は東西合同のフィレンツェ公会議で決定されたからである。また、第2ヴァティカン公会議の「エキュメニズムに関する教令」では、特に東方教会へのエキュメニズムが特に強調されている。
教皇ピウス12世は教会法の専門家として、東方教会とのエキュメニズムに関するガイドラインを、幾つかの自発教令の中で提言している。ピウス12世が、聖母被昇天の教理を決定したのは、東方教会とのエキュメニズムを意識してのこであろう。例えば、ピウス12世の自発教令 Cleri sanctitati (1957)ではエキュメニズムに関して非常に参考になる提言が述べられており、第1ニケア公会議のカノン6条、第1コンスタンティノープル公会議のカノン3条を、各総大司教の地位に関しては平等であるという合理的解釈が適用されるなど、これは第2ヴァティカン公会議の「東方カトリック諸教会に関する教令」にも反映されている。
エキュメニズムの現状
第2ヴァティカン公会議の教会憲章で聖職位階の上位から下位へ改正した副助祭ついて、ピウス12世の同自発教令ではトリエント公会議と同様に聖職位階の上位としている。教会憲章で助祭を聖職位階の下位に改正したのは、東方諸教会では副助祭が上位の聖職位階であることに習ってのこととされている。しかし、助祭(輔祭)については東方教会でも上位でありエキュメニズムには有益なことではない。
また、パウロ6世による聖職位階の下位の廃止も、東方カトリック諸教会に関する教令では、聖職位階の下位の権利と義務に関する規定を各教会の立法権所持者に委任するとまでしか定めていない。実際には東方教会においても聖職位階が存在し、これもエキュメニズムに有益とは言えない。
すなわち、エキュメニズムのための提言が、第2ヴァティカン公会議の行き過ぎた改正により、教皇不可謬性を侵すのみならず、エキュメニズムの妨げにもなり得る。または、このままエキュメニズムを強いて進めた場合、帰一教会における教理矛盾の抱き合わせ状態になりかねない。そのため、第2ヴァティカン公会議の憲章をよび教令の部分的修正をし長期的なエキュメニズムを考えるか、もしくは第1ヴァティカン公会議を無効にして少なくとも869年第4コンスタンティノープル公会議以降のすべての公会議の再検討、すなわち東方教会の帰一を期待せずにカトリック教会側から東方への全面的帰一を考えることが、他教派への影響のためにも必要と思われる。
文献
[1] L. Petit, “Amplissima Collectio,” Mansi, v. 49-53, 1923-1927.
[2] H. デンツィンガー編集, A. シェーンメッツァー増補改訂, 浜寛五郎訳, “カトリック教会文書資料集 改訂版 : 信経および信仰と道徳に関する定義集,” エンデルレ書店, 1996.
[3] マシュー・バンソン著, 長崎恵子, 長崎麻子訳, “ローマ教皇事典 (原題:The pope encyclopedia),” 三交社, 2000.
[4] H. イェディン 著, 梅津尚志, 出崎澄男 訳, “公会議史,” 南窓社, 1986.
[5] W. ドルメッソン著, 橋口倫介訳, “教皇,” ドン・ボスコ社, 1959.
[6] 学校法人 上智学院 新カトリック大事典編纂委員会(代表 高柳俊一)編集, “新カトリック大事典 第3巻” 研究社, 2002.
[7] 上智大学編集, “カトリック大辭典 IV,” 富山房, 1954.
[8] 南山大学 監修, “第2バチカン公会議公文書全集,” サン パウロ, 1986.