「金輪王寺」の版間の差分
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[[1336年]](建武3年)、[[吉野]]を頼っていた[[後醍醐天皇]]は實城寺の寺号改め金輪王寺を南朝皇宮と定め朝廷を開いた。[[京都]]奪還を目指すも、「玉骨ハ縦南山ノ苔ニ埋マルトモ、魂魄ハ常ニ北闕ノ天ヲ望マン」と遺言し[[1339年]](延元4年)8月15日に金輪王寺で崩御した。<br /> |
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[[江戸時代]]になると、[[徳川家康]]は[[大阪の陣]][[1614年]](慶長19年)に、吉野の要害と寺院勢力旺盛なことを鑑み、南光坊[[天海]]に命じ金輪王寺を元の實城寺に改めさせ金輪王寺寺号を没収。日光に移し金を外して日光山輪王寺とし[[宮門跡]]の寺号にしたため、金輪王寺は歴史の影に隠れた。<br /> |
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日光山輪王寺の警護をする日光勤番を任されていた[[八王子千人同心]]が北方警備と開拓のため[[函館市|箱館]](七重大川)に入植し、その一人宮崎重兵衛や子孫達が戦前まで所有していた北海道亀田郡七飯町字大川(旧七重大川)に所在する日本庭園・[[静観園]]を天海の子孫が所有していたことから、[[2013年]](平成25年)金輪王寺を建立し、翌2014年(平成26年)[[静観園]]を取得。 |
日光山輪王寺の警護をする日光勤番を任されていた[[八王子千人同心]]が北方警備と開拓のため[[函館市|箱館]](七重大川)に入植し、その一人宮崎重兵衛や子孫達が戦前まで所有していた北海道亀田郡七飯町字大川(旧七重大川)に所在する日本庭園・[[静観園]]を天海の子孫が所有していたことから、[[2013年]](平成25年)金輪王寺を建立し、翌2014年(平成26年)[[静観園]]を取得。 |
2015年8月28日 (金) 15:44時点における版
金輪王寺(きんりんのうじ)は、北海道亀田郡七飯町字大川392にある寺院
本尊
本尊は蔵王権現
沿革
1336年(建武3年)、吉野を頼っていた後醍醐天皇は實城寺の寺号改め金輪王寺を南朝皇宮と定め朝廷を開いた。京都奪還を目指すも、「玉骨ハ縦南山ノ苔ニ埋マルトモ、魂魄ハ常ニ北闕ノ天ヲ望マン」と遺言し1339年(延元4年)8月15日に金輪王寺で崩御した。
江戸時代になると、徳川家康は大阪の陣1614年(慶長19年)に、吉野の要害と寺院勢力旺盛なことを鑑み、南光坊天海に命じ金輪王寺を元の實城寺に改めさせ金輪王寺寺号を没収。日光に移し金を外して日光山輪王寺とし宮門跡の寺号にしたため、金輪王寺は歴史の影に隠れた。
日光山輪王寺の警護をする日光勤番を任されていた八王子千人同心が北方警備と開拓のため箱館(七重大川)に入植し、その一人宮崎重兵衛や子孫達が戦前まで所有していた北海道亀田郡七飯町字大川(旧七重大川)に所在する日本庭園・静観園を天海の子孫が所有していたことから、2013年(平成25年)金輪王寺を建立し、翌2014年(平成26年)静観園を取得。
参考文献
・中岡清一著/昭和12年7月25日積善館発行/改定・大塔宮之吉野城/P712~716/文部省優良推薦・官報昭和13年12月28日第3596号参照
・七飯町歴史館/宮崎旅館・大沼観光の先駆け