コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「幡随意」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
25行目: 25行目:
'''幡随意'''(ばんずいい、[[天文 (元号)|天文]]11年[[10月15日 (旧暦)|10月15日]]([[1542年]][[11月21日]])- [[慶長]]20年[[1月5日 (旧暦)|1月5日]]([[1615年]][[2月2日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]初期にかけての[[浄土宗]]の学僧。[[相模国]]の出身。号は演蓮社智誉向阿白道。
'''幡随意'''(ばんずいい、[[天文 (元号)|天文]]11年[[10月15日 (旧暦)|10月15日]]([[1542年]][[11月21日]])- [[慶長]]20年[[1月5日 (旧暦)|1月5日]]([[1615年]][[2月2日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]初期にかけての[[浄土宗]]の学僧。[[相模国]]の出身。号は演蓮社智誉向阿白道。


== 生涯・業績 ==
幡随意は天文11年に相模国藤沢郷(現在の[[神奈川県]][[藤沢市]])で中世末期の川島党の惣領家・豪族[[川島氏]]の子として生まれた。しかし、9歳の頃から出家の志があったといい、11歳の歳には同国の玉縄[[二伝寺]](藤沢市所在)で出家し、幡随意と号した。
幡随意は天文11年に相模国藤沢郷(現在の[[神奈川県]][[藤沢市]])で中世末期の川島党の惣領家・豪族[[川島氏]]の子として生まれた。しかし、9歳の頃から出家の志があったといい、11歳の歳には同国の玉縄[[二伝寺]](藤沢市所在)で出家し、幡随意と号した。


49行目: 50行目:
{{Buddhism-stub}}
{{Buddhism-stub}}
{{Japanese-history-stub}}
{{Japanese-history-stub}}
{{People-stub}}
{{reli-bio-stub}}

2016年8月30日 (火) 06:01時点における版

幡随意
天文11年10月15日1542年11月21日)- 慶長20年1月5日1615年2月2日
川島
幡随意
演蓮社智誉向阿白道
尊称 幡随意上人
生地 相模国
没地 紀の国(現・和歌山市)
宗派 浄土宗
寺院 熊谷寺
幡随院
万性寺(和歌山和歌山市)
正定寺 (古河市下大野)
知恩寺
テンプレートを表示

幡随意(ばんずいい、天文11年10月15日1542年11月21日)- 慶長20年1月5日1615年2月2日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての浄土宗の学僧。相模国の出身。号は演蓮社智誉向阿白道。

生涯・業績

幡随意は天文11年に相模国藤沢郷(現在の神奈川県藤沢市)で中世末期の川島党の惣領家・豪族川島氏の子として生まれた。しかし、9歳の頃から出家の志があったといい、11歳の歳には同国の玉縄二伝寺(藤沢市所在)で出家し、幡随意と号した。

その後鎌倉光明寺で浄土教学を修め、武蔵国川越蓮馨寺(れんけいじ)の存貞にも学んだ。慶長6年(1601年)徳川家康の命により江戸にて浄土宗法論の奉行役を務め、翌・慶長7年(1602年)に京都百万遍知恩寺の33世住持となる。慶長8年1603年には家康によって招聘され、江戸神田駿河台に新知恩寺(のちの関東十八檀林の一つ幡随院)を開創した。慶長18年(1613年徳川家康の命により九州に下り、キリシタンの改宗に力を尽くした。和歌山万性寺を開創後の慶長20年に入寂、74歳であった。

参考文献

  • 『神田山新知恩寺幡随院』(同寺発行の案内小冊子)。
  • 喚誉『幡随意上人諸国行化伝』勝村治右ェ門、1755年。 
  • 彩誉・編 編『幡随意上人伝』山口屋佐七、1861年。 
  • 伊達保美・編 編『幡随意上人小伝』1914年。全国書誌番号:42014415 

脚注