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== 生涯 ==
== 生涯 ==

2020年6月8日 (月) 14:09時点における版

貞和王后
各種表記
ハングル 정화왕후
漢字 貞和王后
日本語読み: ていわおうこう
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貞和王后(ていわおうこう、チョンファワンフ、정화왕후生没年不詳)は、高麗の太祖王建の曾祖母で王帝建の母。名は康辰義(カン・チニ[1])。

生涯

中国の陝西省京兆郡出身の康叔の次男の67代子孫[2][3][4]康虎景の息子が康忠であり、康忠は、伊帝健・宝甸・康宝育の3人の子を授かる。康宝育は姪の康徳州を娶り娘の康辰義をもうけ、その康辰義と中国人とのあいだに生まれたのが王帝建である[1]。王帝建の父の中国人は中国皇族[5]、『編年通録朝鮮語版』と『高麗史節要』では粛宗、『編年綱目』では宣宗である[6][7]。父の中国人が新羅に来た時に、康宝育の娘の康辰義との間に王帝建は生まれた[8]。王帝建は、父を探しに唐に行くため黄海を渡河していた途上、西海龍王の娘の龍女(後の元昌王后)と出会い、王帝建は、西海龍王の娘の龍女(後の元昌王后)の駙馬となる。『聖源録』によると、西海龍王の娘の龍女(後の元昌王后)というのは、中国平州出身の頭恩坫角干の娘のことである[9]。そして王帝建と西海龍王の娘の龍女(後の元昌王后)との間に息子の王隆が生まれる[10][11]。その王隆の息子が高麗の初代王王建である[12][13]

高麗史』によると、姉が夢の中で、五冠山の頂にのぼり、世の中が溢れるほどの小便をしたという夢を見て、この話を康辰義にすると、康辰義は幸運を暗示していると考え、自分の絹のチマチョゴリで夢を買った。その後、新羅に来たの皇族と出会って、王帝建を生んだ[14]

家族

脚注

  1. ^ a b 八幡和郎『誤解だらけの韓国史の真実』イースト・プレス、2015年4月10日、64頁。ISBN 978-4781650494 
  2. ^ 世界日報 2013
  3. ^ 韓国民族文化大百科事典
  4. ^ 성씨검색 강(康)-뿌리를 찾아서
  5. ^ 高雲基 2001, p. 86
  6. ^ 韓国民族文化大百科事典 경강대왕
  7. ^ 高雲基 2001, p. 86
  8. ^ 高雲基 2001, p. 86
  9. ^ 韓国民族文化大百科事典 의조경강대왕
  10. ^ 高雲基 2001, p. 86
  11. ^ 韓国民族文化大百科事典 의조경강대왕
  12. ^ 世界日報 2013
  13. ^ 高雲基 2001, p. 86-87
  14. ^ 高雲基 2001, p. 87
  15. ^ 高雲基 2001, p. 87
  16. ^ 高雲基 2001, p. 87
  17. ^ 高雲基 2001, p. 87
  18. ^ 高雲基 2001, p. 87
  19. ^ 高雲基 2001, p. 87

参考文献

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