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康忠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
康 忠
各種表記
ハングル 강충
漢字 康 忠
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康 忠(カン・チュン、朝鮮語: 강충、生没年不詳)は、高麗の初代王王建の6代祖先。

概略

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高麗の初代王王建の先祖である康虎景が、平那山に狩りに行くと山神と出会い、山神が「結婚して、2人で神権政治を治めましょう」と持ち掛ける。康虎景は、もともと妻がいて、妻のことが忘れられず夢の中で訪ねて、妻が身ごもった。そこで生まれたのが康忠である[1]。ある日、新羅風水師・八元(パルウォン)が康忠のもとを訪ねて、「松嶽山に松を植え、岩肌が見えないようにすれば、三韓を統一する人物が生まれるだろう」と予言して、松を植えたところ、岩を覆い松嶽となり、後世王建が生まれた[2]

人物

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中国陝西省京兆郡出身の康叔の次男の67代子孫[3][4][5]康虎景の息子が康忠であり、康忠は、伊帝建康宝育を授かる。康宝育は姪の徳周を娶り娘の康辰義をもうけ、その康辰義と中国人とのあいだに生まれたのが王帝建である[6]。王帝建の父の中国人皇族[7]、『編年通録朝鮮語版』と『高麗史節要』では粛宗、『編年綱目』では宣宗である[8][7]。父の中国人が新羅に来た時に、康宝育の娘の康辰義との間に王帝建は生まれた[7]。王帝建は、父を探しに唐に行くため黄海を渡河していた途上、西海龍王の娘の龍女(後の元昌王后)と出会い、王帝建は、西海龍王の娘の龍女(後の元昌王后)の駙馬となる。『聖源録』によると、西海龍王の娘の龍女(後の元昌王后)というのは、中国平州出身の頭恩坫角干の娘のことである[9]。そして王帝建と西海龍王の娘の龍女(後の元昌王后)との間に息子の王隆が生まれる[7][9]。その王隆の息子が高麗の初代王王建である[3][1]

備考

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前述したように唐人の家系の出身であるが、王建の活躍を描いた韓流ドラマ太祖王建』には、「先祖は彼(張保皐)とともに唐から新羅に渡ってきた」と王建に語るシーンがある[10]

家族

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脚注

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  1. ^ a b 高雲基 2001, p. 86-87
  2. ^ “【噴水台】開城”. 中央日報. (2004年12月16日). オリジナルの2022年8月2日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220802195421/https://japanese.joins.com/JArticle/58718 
  3. ^ a b “김성회의 뿌리를 찾아서”. 世界日報. (2013年4月2日). オリジナルの2016年3月4日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160304201541/http://www.segye.com/content/html/2013/04/02/20130402004548.html 
  4. ^ “신천강씨 信川康氏”. 韓国民族文化大百科事典. https://archive.ph/ANKd3 
  5. ^ “강씨(康氏)의 본관”. rootsinfo. オリジナルの2016年11月25日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20161125064730/http://www.rootsinfo.co.kr/info/roots/view_bon.php?H=%CB%AC&S=%B0%AD 
  6. ^ 八幡和郎誤解だらけの韓国史の真実イースト・プレス、2015年4月10日、64頁。ISBN 978-4781650494https://books.google.com/books?id=FlN-DQAAQBAJ&pg=PT64&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false 
  7. ^ a b c d 高雲基 2001, p. 86
  8. ^ “韓国民族文化大百科事典 경강대왕”. 韓国民族文化大百科事典. http://encykorea.aks.ac.kr/Contents/Index?contents_id=E0002284 
  9. ^ a b “韓国民族文化大百科事典 의조경강대왕”. 韓国民族文化大百科事典. http://encykorea.aks.ac.kr/Contents/Index?contents_id=E0043394 
  10. ^ 『韓国大河ドラマ公式ガイドブック 太祖王建』インフォレスト〈INFOREST MOOK〉、2012年10月26日。ISBN 978-4861907425 

参考文献

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