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'''張穆之'''(ちょう ぼくし、[[生没年不詳]])は、[[宋 (南朝)|南朝宋]]の[[政治家]]。[[蕭衍]]の外祖父。[[字]]は思静。[[本貫]]は[[范陽郡]][[固安県|方城県]]。
'''張 穆之'''(ちょう ぼくし、生没年不詳)は、[[宋 (南朝)|南朝宋]]の[[政治家]]。[[字]]は思静。[[本貫]]は[[范陽郡]][[固安県|方城県]]。[[蕭衍]]の母方の祖父。弟は張安之([[張弘策]]の父)。[[西晋]]の[[司空]]の[[張華]]の6世の孫にあたる


== 経歴 ==
== 経歴 ==
宋の[[濮陽郡]][[太守]]の張次恵の子として生まれた。[[晋 (王朝)|晋]]の[[司空]][[張華]]の6世の孫にあたる。[[元嘉 (南朝宋)|元嘉]]年間、員外散騎侍郎となった。吏部尚書の[[江湛]]や太子左率の[[袁淑]]と仲が良く、袁淑が始興王[[劉濬]]に穆之を推薦すると、劉濬は穆之を信任した。穆之は[[建康 (都城)|建康]]に禍乱のきざしがあるのを見て、難に遭うのを避けるために、江湛に言って外任を求めた。江湛は東県で任用しようとしたが、穆之が遠郡での任を強く求めたため、寧遠将軍・[[交趾郡]]太守となった。治績を挙げ、ときに[[刺史]]が死んで[[交州]]で大乱が起こると、穆之は硬軟両用の対処で領内を安定させた。[[文帝 (南朝宋)|文帝]]がこのことを聞くと賞賛し、穆之は交州刺史に任じられるところだったが、病没した。
南朝宋の[[濮陽郡]][[太守]]の張次恵の子として生まれた。[[元嘉 (南朝宋)|元嘉]]年間、員外散騎侍郎となった。吏部尚書の[[江湛]]や太子左率の[[袁淑]]と仲が良く、袁淑が始興王[[劉濬]]に穆之を推薦すると、劉濬は穆之を信任した。穆之は[[建康 (都城)|建康]]に禍乱のきざしがあるのを見て、難に遭うのを避けるために、江湛に言って外任を求めた。江湛は東県で任用しようとしたが、穆之が遠郡での任を強く求めたため、寧遠将軍・[[交趾郡]]太守となった。治績を挙げ、ときに[[刺史]]が死んで[[交州]]で大乱が起こると、穆之は硬軟両用の対処で領内を安定させた。[[文帝 (南朝宋)|文帝]]がこのことを聞くと賞賛し、穆之は交州刺史に任じられるところだったが、病没した。


[[梁 (南朝)|南朝梁]]が建国されると、光禄大夫に追贈され、金章紫綬を加えられた。
[[梁 (南朝)|南朝梁]]が建国されると、[[光禄大夫]]に追贈され、金章紫綬を加えられた。


== 子女 ==
== 子女 ==
*張弘籍(字は真芸、[[斉 (南朝)|斉]]初に鎮西参軍となった)
*張弘籍(字は真芸、[[斉 (南朝)|南朝斉]]初に鎮西参軍となった)
*[[張尚柔]]([[梁 (南朝)|]]の武帝[[蕭衍]]の母)
*[[張尚柔]](南朝梁の武帝[[蕭衍]]の母)


== 伝記資料 ==
== 伝記資料 ==

2021年3月11日 (木) 09:39時点における版

張 穆之(ちょう ぼくし、生没年不詳)は、南朝宋政治家は思静。本貫范陽郡方城県蕭衍の母方の祖父。弟は張安之(張弘策の父)。西晋司空張華の6世の孫にあたる。

経歴

南朝宋の濮陽郡太守の張次恵の子として生まれた。元嘉年間、員外散騎侍郎となった。吏部尚書の江湛や太子左率の袁淑と仲が良く、袁淑が始興王劉濬に穆之を推薦すると、劉濬は穆之を信任した。穆之は建康に禍乱のきざしがあるのを見て、難に遭うのを避けるために、江湛に言って外任を求めた。江湛は東県で任用しようとしたが、穆之が遠郡での任を強く求めたため、寧遠将軍・交趾郡太守となった。治績を挙げ、ときに刺史が死んで交州で大乱が起こると、穆之は硬軟両用の対処で領内を安定させた。文帝がこのことを聞くと賞賛し、穆之は交州刺史に任じられるところだったが、病没した。

南朝梁が建国されると、光禄大夫に追贈され、金章紫綬を加えられた。

子女

伝記資料

  • 梁書』巻7 列伝第1 皇后
  • 南史』巻12 列伝第2 后妃下