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南条氏

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南条氏(なんじょうし)は伯耆国の有力国人大名の一族。主に東伯耆を中心に勢力を誇っていた。

経歴

南条氏は出雲国守護塩冶高貞の二男である南条貞宗を始祖とする一族である。初代・貞宗が羽衣石城を築いてから250年間、10代にわたって続き伯耆国の名門一族といわれる。

初期・中期の南条氏

初代当主・貞宗が羽衣石城を築城した初めの頃の南条氏の所領は河村郡埴見郷と西郷(日下郷)であったという。(参考・「埴見郷伝記」)その後、山名氏による伯耆国内の荘園侵略が行われている間に南条氏は東郷庄(荘)を中心に勢力の拡大を行っていた。南条氏は山名氏傘下に入り、小鴨氏・進氏とともに守護代に任じられ応仁の乱にも山名氏の軍勢の一員として参加していることが文献によって確認されている。このことから分かるように初期・中期の南条氏は守護・山名氏の下で勢力を蓄え、拡大させていったと考えられている。しかし、初期・中期の南条氏に関する史料はあまりにも乏しく3代から5代にかけての当主の名前も分かっていないという状態である。(現在、定光寺(じょうこうじ)文書以外の郷土の古文書は見つかっていない)先に記した南条氏の活動は山名氏などの古文書に見られるものであり不明な点も多い。後に書かれた「伯耆民談記」に見られる記述もわずかに数行のみであり、今後の研究、古文書の発見が期待されるところである。

戦国時代の南条氏

戦国時代に入ると南条氏を取り巻く伯耆国内の状況は変化していった。応仁の乱頃より伯耆国内では山名氏の統治に混乱が生じ始め南条氏をはじめとする国人の台頭、自立が目立つようになった。特に国人の中でも南条氏と西伯耆の尾高城城主・行松氏が最も有力であったが伯耆一国を支配する力はどちらも有しておらず、この国内の混乱に乗じた尼子氏は伯耆への侵出を開始する。永正年間から段階的に勢力拡大を行った尼子氏は守護・伯耆山名家への介入や伯耆国の国人の懐柔、追放、討滅を行い伯耆一円の支配を拡大させていった。南条氏も例外ではなく居城・羽衣石城が尼子方によって落城させられた。これにより、南条氏は山名氏、武田氏などの因幡国但馬国の武将を頼り領国を追われる身となってしまった。南条氏はこの後、尼子氏の傘下に入り大内氏攻めに参加していることが分かっているが、それからまもなく同じく中国地方の大大名毛利氏の下に小鴨氏とともについて尼子氏攻めにも参加していることが確認されている。毛利氏についた南条氏はこの後、羽衣石城の回復のため反尼子勢力として活動している。永禄5年(1562年)、南条宗勝は毛利氏により東伯耆3郡が与えられ南条氏はようやく羽衣石城を回復することができたのである。(ただし、「検使」とよばれる毛利氏の目付役が送られるという制約つきであった。)

織豊期の南条氏

天正年間になると今度は織田信長中国地方への進出が始まり中小領主の間に動揺が広がった。毛利方の南条氏もそのような領主の1つであり、織田氏と毛利氏の対立と一家の存続の間で相当動揺していたものと考えられる。天正3年(1575年10月14日南条元続・小鴨元清兄弟は吉川元春吉川元長父子へ血判起請文を提出、忠誠を誓っている。しかし、天正7年、南条氏は織田方へ離反し吉川元春の信任の厚かった重臣・山田重直の居城・堤城を攻撃している。翌天正8年6月豊臣秀吉が因幡へ侵攻、吉川元春は羽衣石城攻略を決めて兵を山陽から伯耆へと進めた。天正8年から9年にかけて吉川方と南条方を相次いで合戦をしている。また、天正9年10月からは鳥取城攻めを終えた秀吉の軍勢が南条・小鴨氏の願いを受け御冠山(現・湯梨浜町宮内)に着陣、馬ノ山に着陣した吉川元春と対峙した。しかし南条方の期待を裏切り、秀吉は羽衣石城へ食料・弾薬を補給して早々と撤退していった。これにより南条軍の士気は低下し遂に翌天正10年(1582年9月、羽衣石城は吉川方へ陥ちて南条氏は播磨国または京都へ逃げることになった。その後、秀吉を頼った南条元続は天正11年11月から天正12年7月までの間に羽衣石城へ戻ることができたようである。毛利氏と豊臣方との所領交渉は数度行われ、天正13年にようやく所領が決定した。それにより南条氏は八橋城を除く東伯耆3郡が与えられ6万石の大名へとなった。豊臣方の大名となった南条氏は秀吉の小田原攻めに参加するなどした。朝鮮出兵に際しては元続の死後家督を継いだ10代当主・南条元忠はまだ幼く、叔父の小鴨元清が代わりに1500人の兵を率いて朝鮮へ渡り、釜山から漢城の間において活躍した。

秀吉の死後の南条氏

秀吉の死後、徳川家康石田三成の対立は激しくなり慶長5年(1600年)9月、天下を二分する関が原の戦いが行われた。これに際して南条氏はどちらにつくのか重臣とともに協議し、一度は徳川方へ意見が傾いたが山田佐助の進言により最終的には石田方へつくことになった。しかし、結果は西軍の敗北となり南条氏は改易され250年間、10代にわたって続いた羽衣石城は滅亡することとなった。このとき南条方の城や南条氏ゆかりの神社・仏閣は徳川方によって焼き払われた。このことが現在、南条氏関連の記録があまり残っていない原因の1つだといわれている。その後、10代当主だった元忠は浪人の身となり、慶長19年(1614年)の大阪冬の陣に際し豊臣の恩に報いるため多くの一族、旧臣とともに大阪城へ入り戦った。しかし、元忠は徳川方の藤堂高虎と伯耆一国を条件に内通していたことが発覚して家臣とともに大阪城内にて切腹したと伝えられている。これにより南条氏再興の道は途絶え、東伯耆の地は幕府直轄領を経て鳥取池田氏によって明治維新まで統治されることになった。

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