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織田氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
織田氏
家紋
織田瓜おだうり
本姓 桓武平氏資盛流
藤原北家利仁流?
忌部宿禰?
家祖 平親真
種別 武家
華族子爵
出身地 越前国織田庄
主な根拠地 尾張国清洲城
美濃国岐阜城
近江国安土城
東京府
著名な人物 織田信秀
織田信長
織田信勝(信行)
織田長益(有楽斎)
織田信忠
織田信雄
織田信孝
支流、分家 津田氏武家
凡例 / Category:日本の氏族
家紋・揚羽蝶
家紋
揚羽蝶あげはちょう

織田氏(おだし)は、武家華族だった日本氏族

もとは斯波氏の家臣の家柄で、尾張において勢力を張り、戦国時代には織田信長が出た。嫡流は関ヶ原の戦いで西軍に付き、改易となったが、信長の弟・長益と二男・信雄の子孫の4家が外様大名として明治維新まで続き、維新後は4家とも華族の子爵家に列する[1]

家紋は揚羽蝶、織田木瓜など。通し字は「」(嫡流伊勢守家)、「」(大和守家)、「」(弾正忠家)など。


概略

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織田一族の発祥地は越前国織田荘(現・福井県丹生郡越前町)にある劔神社である。本姓藤原氏藤原北家利仁流?、のちに桓武平氏資盛流を称する)。実際は忌部氏の流れを汲むとされる。

甲斐氏朝倉氏と同じく、三管領斯波武衛家の守護代であり、序列は甲斐氏に次いで二位であった。室町時代尾張国守護代を務める。戦国時代には一族同士の争いの結果、弾正忠家織田信長が勢力を大きく広げた。

だが、天下統一を目前に本能寺の変で信長および嫡子の織田信忠が討たれると、織田氏の有力家臣の間で勢力争いとなった。最終的に羽柴秀吉が織田家中を纏めたが、織田家当主とされた織田秀信の成長後も政権は織田家に返されることはなかった。

しかし、織田氏の本国である岐阜城は返却され、美濃の領主とされた。関ヶ原の戦いで西軍についたことで徳川家康により織田秀信が改易され、5年後の彼の死を以って織田家嫡流は断絶したと言われている。

とはいえ、織田信長の次男である織田信雄を筆頭に弾正忠家の庶流は存続し続け、江戸時代には外様の小大名や高家旗本尾張藩明石藩家老などとして存続した。なかには藤掛氏津田氏のように織田を称しない一族もいる。現在でも直系子孫が続いている。

明治維新後、大名の織田家 4家が華族の子爵に列した。

出自

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織田氏は系図の上では平資盛の子と自称する平親真の子孫と称している。しかし、福井県越前町織田法楽寺で発見された親真を供養した五輪塔の一部には「喪親真阿聖霊(あしょうりょう)正應三年庚刀(かのえとら)二月十九日未尅(ひつじのこく)」、つまり親真は正応3年(1290年)2月19日に亡くなったと刻印されており、『信長記』(小瀬甫庵)などの文献と照らし合わせると親真が100歳を超える寿命になり信憑性が問われる[2]。ただし、資盛の親戚である四条貞子のように100歳以上の長寿もいないわけではないので真実は不明である。

この他、越前国織田荘福井県丹生郡越前町)の織田剣神社神官の出自であるともされている[3]

また、福井県郷土史家である松原信之の研究によると、織田剣神社にある『藤原信昌・兵庫助弘置文』の古文書で、明徳4年(1393年)の6月17日に剣神社宝前に奉納し、置文を記した鎮守府将軍藤原利仁(あるいは利仁の岳父で、敦賀郡の豪族藤原有仁忌部氏?))の系統と思われる藤原信昌藤原兵庫助将広常松?・常竹?)父子が越前織田家の先祖に関連がある人物と伝わる。事実として織田信長は「藤原信長」と称しているが、その根拠はここから来ており、元東京帝国大学史料編纂官の博士・田中義成の研究によると、信長は実際に天文18年(1549年)11月、熱田八ヶ村の熱田神宮で自ら「藤原信長」と認(したた)めていると述べている(『加藤文書』より)。また、天文23年(1554年)6月11日、織田信長は熱田神宮に菅原道真画像(熱田神宮所蔵)を寄進。その絵巻には「藤原織田勘十郎」と記してある。

また、他の学説としては、親真自身が忌部氏の出自とする説もある。

なお、「織田」の読み方について、『寛永諸家系図伝』仮名本の振り仮名を根拠として、当時(江戸時代前期)には「をた(おた)」と読まれており、織田信長も生前は「おたのぶなが」と清音で読まれていた可能性があるとする橋本政宣の見解がある[4]

建武の新政 - 安土桃山時代

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斯波氏の重臣

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元弘3年(1333年)、建武の新政において足利高経(斯波高経)が越前国の守護に補任されて以降、越前守護職は斯波氏世襲していくこととなり、越前の国人であった織田氏も暫時その被官層に組み込まれていったと考えられる。

後に斯波氏は応永7年(1400年)に尾張守護を、応永12年(1405年)に遠江守護をそれぞれ加えられると、斯波氏の筆頭家臣であった執事甲斐氏が越前守護代と遠江守護代を兼任し、織田氏は尾張守護代を世襲するようになった。織田氏の最初の守護代は織田将広の子の織田常松(織田教広)[5]であるとされ、この頃より織田一族は越前から尾張へ移住していったものと見られる。斯波家中においては、将軍直臣扱いで室町将軍の御成を受ける程の家格を誇った甲斐氏に次ぐ序列二位であり、宝徳3年(1451年)、織田郷広を8代将軍足利義政自らが赦免して尾張守護代へ復帰させようとした問題は、義政の母日野重子出奔して抗議する程の事件となった。

尾張守護代を世襲した織田氏惣領家は代々伊勢守を称したため伊勢守家と呼ばれ、主君である斯波氏とともに在京生活を送って中央政界での権力闘争に終始し、尾張には在国の又守護代(守護又代とも)として、代々大和守を称する一族(大和守家)を配置して統治を行っていた[要出典]

なお、室町将軍のブレーンであった醍醐寺座主・満済の日記(『満済准后日記』)によれば、正長元年(1428年)8月6日、織田常松は病に侵され危篤状態にあったとされ、満済が常松の許に見舞いの使者を送った際、織田弾正という者が応対したという記述があり、これが織田弾正忠家(後述、織田信長の家系)の史料上の初出と見られている。

応仁の乱と織田氏の分裂

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織田氏の主君である斯波氏は7代当主斯波義淳の没後、8代・義郷・9代・義健と短命の当主が続き、家中の実権は執権の甲斐氏をはじめ織田氏・朝倉氏などの重臣層と、斯波一族の大野家などが握っていた。やがて重臣層と一族衆の対立が深刻化し、寛正6年(1465年)には重臣層が推す渋川義鏡の子義廉と大野家出身の義敏が家督を巡って対立する武衛騒動が起こることとなった。

この争いが将軍家畠山氏の家督相続と連動したため、応仁元年(1467年)の応仁の乱が勃発、義廉と甲斐氏や織田氏などの主だった重臣層は東軍となり、義敏と斯波一族、そして一部の重臣やその庶流は西軍となり争った。この時、義廉は京都で東軍の主力として戦い、義敏は守護職回復を狙って越前で戦っている。また義敏の子義良(義寛)は尾張に居たと思われ、文明7年(1475年遠江国は東軍である駿河守護今川氏の侵攻を受け、同じく東軍であった遠江守護代甲斐敏光とともにこれを防ぎ、今川義忠を敗死に追い込んでいる。しかし、越前国では西軍から東軍に寝返った朝倉孝景が越前守護を称して西軍の勢力を越前から一掃していき、さらに文明13年(1481年)頃までには朝倉氏は同軍であり主君でもある義敏・義良親子の勢力も駆逐してしまった。武衛騒動に始まる度々の失態により義廉も将軍足利義政の不興を買って管領職・三ヶ国守護職・斯波氏家督の全てを剥奪され、都落ちを余儀なくされている。

尾張国では、守護代の織田敏広(伊勢守家)が西軍ということもあって西軍の優勢な地域であった。この頃、尾張の守護所が下津城(中島郡)から清洲城(春日井郡)に移されたという。このため都落ちを余儀なくされた義廉も尾張へ落ち延び、敏広とともに勢力の巻き返しを図ることとなった。

しかし、応仁の乱が終結した翌年の文明10年(1478年)、東軍であった尾張又守護代・織田敏定(大和守家)が室町幕府の将軍・足利義尚から正式な尾張守護代と認められると、敏広と義廉は兇徒と断じられて討伐対象に指定されて清洲城を追われた(義廉は以後の記録には見えなくなる)。しかし、伊勢守家は、織田敏広の岳父であった美濃国斎藤妙椿(旧・西軍)の支援を得て盛り返し清洲城を包囲した。この時、織田敏定は右目に矢を受けたという。

翌文明11年(1479年)、再三の幕府の介入により、織田敏広と斎藤妙椿は清洲城の包囲を解き、尾張上四郡(丹羽郡葉栗郡中島郡春日井郡)を伊勢守家、尾張下四郡(愛知郡知多郡海東郡海西郡)を大和守家が治めることで和睦したとされる(しかし、実際には知多郡と海東郡は一色氏が分郡守護であった)。

文明13年(1481年)3月に伊勢守家は大和守家と争って勝利した。織田敏広の後を継いだ寛広は斯波義寛(義良)に帰順した。

文明15年(1483年)には京から尾張に下向した斯波義寛清洲城に入城し、守護・斯波義寛、守護代・織田敏定の体制で尾張はひと時の安定期を迎えた。

守護・義寛のもとで安定化した尾張であったが、長享元年(1487年)に近江守護・六角高頼攻め(長享・延徳の乱)が起こると義寛は両織田氏を率いて将軍の元に参陣した。延徳3年(1491年)には、斯波氏の織田敏定、赤松氏浦上則宗の両名は、第10代将軍足利義稙から戦功を評され剣が与えられている[6]。また、その後の六角氏との簗瀬河原での合戦でも幕府の主力として織田敏定、浦上則宗、若狭武田氏逸見弾正の名が見える[7]。義寛は将軍家に越前侵攻の支援を望んでいたが、明応2年(1493年)の明応の政変により越前奪還の夢は完全に潰えることとなった。

斯波氏の失墜

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明応3年(1494年)に美濃守護土岐氏の家督争い(船田合戦)が起こると、織田寛広(伊勢守家)は斎藤妙純方に付き、石丸利光方に付いた織田敏定・寛定父子(大和守)がそれぞれ陣没・戦死するなど尾張国内が乱れたため、遠江も駿河守護の今川氏親の配下であった北条早雲の侵攻を許すこととなった。以降の斯波氏は今川氏との長い抗争に終始することとなる。なお、船田合戦終結の翌年、斎藤妙純も近江で戦死したため、伊勢守家は後ろ盾を失い急速に勢力を失った。

その後、斯波義寛の後を継いだ義達は遠江奪還のための遠征を繰り返したが、この際の義達の軍勢に織田氏は従軍しておらず、一連の遠征は織田氏にとって決して賛同できるものではなかったと思われる。このため、永正10年(1513年)にはついに守護代・織田達定が守護・義達に叛旗を翻したものの、義達によって返り討ちにされてしまった。守護代の下剋上を阻止した義達はなおも遠江遠征を続行させるものの、永正12年(1515年)に決定的な敗北を喫して捕虜となり尾張へ送還されたために失脚し、わずか3歳の斯波義統が当主となり、斯波氏の権威は失墜した。

織田弾正忠家の台頭と織田信長の出現

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このような中で急速に台頭を果たしてきたのが、清洲織田氏の三家老の一つ、織田弾正忠家の織田良信信定父子であり、海東郡津島に居館を構えて交易を押さえ、海西郡や中島郡を侵食して勢力を伸ばし、勝幡城(海東郡、中島郡)などを築城した。

大永7年(1527年)、織田信定がその子の織田信秀に家督を譲った頃には弾正忠家は主家を凌ぐ力をつけており、今川那古野氏今川氏豊から那古野城(愛知郡)を奪うなど信秀は更に勢力を拡大し、美濃国では斎藤道三と、三河国では松平清康広忠や、駿河守護の今川義元と抗争した。

その子・織田信長は、父の没後に起こった織田家の内紛を鎮める一方で、名目上の主君であった斯波義統が守護代・織田信友により殺害されると、斯波義銀を奉じて清洲織田氏(大和守家)を滅ぼした。更に岩倉織田氏(伊勢守家)も滅ぼし、後に斯波義銀も追放した。さらに尾張へ進出してきた今川義元桶狭間の戦いで破り、尾張知多郡や三河碧海郡を擁する水野氏や、岡崎城を中心に三河一帯を制した徳川氏と同盟を結び、さらに甲斐国の武田氏とも友好的関係を築いた。

信長はこうした外交的安定を背景に美濃・伊勢へ勢力を広げ、上洛し将軍・足利義昭を擁立する。信長は義昭と連携し中央政権としての影響力を誇示していたが義昭はやがて独自性を強め、近江国浅井長政越前国朝倉義景、さらに本願寺甲斐国武田信玄ら反信長勢力を迎合し信長に対抗する(信長包囲網)。元亀年間には武田信玄西上作戦を行い遠江・三河へ侵攻するが、信玄の死去により作戦は中止され、反信長勢力は各個撃破され、義昭は京都から追放された。室町幕府の滅亡により、織田政権が樹立される。

その後、信長は家臣を各方面へ派兵して統一事業を進めるが、天正10年(1582年)には本能寺の変において家臣の明智光秀に攻められ自害。この際、信長の嫡男で織田氏の当主であった織田信忠二条新御所自刃したため、政権の中核となるべき人物を失った織田政権は崩壊した。

豊臣政権下 - 江戸時代

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一般的には本能寺の変の後、清洲会議での決定で信忠の嫡男・秀信(三法師)が織田宗家(織田弾正忠家の宗家)を継ぎ、三法師擁立の功績から羽柴秀吉が台頭したとされている(『川角太閤記』)が、一連の逸話を疑問視して信長・信忠に何かがあれば三法師が織田宗家を継ぐことは信長生前から決められており、信長・信忠の死によって当主になった三法師が避難・滞在している清洲城に織田氏の一族・重臣らが集まって今後のことを協議したのが清洲会議であるとする説もある。つまり、清洲会議は前者に従えば「三法師を後継者と決めた会議」、後者に従えば「(形式上)後継者である三法師が招集した会議」ということになる[8]

しかし、その後元服して秀信と名乗った三法師は関ヶ原の戦いで敗れて改易されて配流の後に絶家したとされ、織田信長の血筋を引き継いで明治まで続いた系統は、主として次男信雄・七男信高・九男信貞子孫であった。

信忠(信長嫡男)の末裔

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織田宗家の当主となった三法師は当初は信長の三男信孝の庇護下に置かれて岐阜城にいた。ところが、清洲会議後に羽柴秀吉と柴田勝家が対立を深め、信孝が勝家と結ぶと、反主流派になった羽柴秀吉丹羽長秀池田恒興と図って信長の次男信雄を名代として一時的に織田宗家の家督を継ぐことを認めることで三法師を擁する勝家・信孝に対抗した[9]

三法師は元服して秀信と称したが、賤ヶ岳の戦い後に信孝が滅亡し、小牧・長久手の戦い後に信雄が降伏した後も、実権を握った秀吉はそのまま信雄を織田宗家の当主として扱い、秀信は秀吉の庇護下のまま各地を転々とさせられ、信雄が失脚して嫡男の秀雄が後を継いだ際も秀信ではなく秀雄が織田宗家の当主とされていたと考えられる[10]

その後、秀吉から祖父・織田信長のかつての居城であった岐阜城13万3千石を与えられ、大名に取り立てられた。岐阜領は信長の四男である羽柴秀勝(於次)名跡を継いだ羽柴秀勝(小吉)の旧領であるために秀信を秀勝(於次)の後継者と考えることもでき、秀吉が一旦、織田宗家の家督を信雄父子に与えてしまったために改めて「信長ー(信忠)ー秀勝(於次)ー秀信」という織田宗家の家督の再構成を図られたとするとする説もある[11]。また、秀吉の旧主でもあったため貴人として遇され、官位中納言まで昇進し「岐阜中納言」と呼ばれ、豊臣政権を構成する有力な大名の一人となった。

しかし、秀信は関ヶ原の戦いで西軍に属して戦ったために改易され、身柄は高野山へ送られた。そして、秀信の死をもって織田信長の嫡流の絶家ということになった。このことから織田家嫡流は徳川家康により滅ぼされたともいえる。また、秀信のである秀則も改易後は京都に隠退して男子を残さなかったとされている。

なお、『江源武鑑』(一般的には偽書とされる)では秀信に娘がいたとしており、その娘と六角義郷の間に氏郷が生まれたという。また、嫡流男系が郷士西山氏や織田(おりた)氏として土着したという記録もあり、これが事実であるとすると嫡流男系は正式な武士としての身分は失ったものの、士分の階層には留まり存続したことになる。以上の記述が正しいとするならば、信長の嫡流男系と嫡流女系は存続していたことになる。『寛政重修諸家譜』など、公的な系譜では秀信に子女はいなかったとしている。

和歌山県橋本市善福寺跡地には1918年大正7年)4月に上記の織田(おりた)氏であり、秀信の後裔として織田信之助、織田亀吉、松山タケノらによって、織田秀信公碑が建立されている。この石碑には、当時の円徳寺(岐阜県岐阜市神田町)の住職により秀信の事跡を綴らている。

信雄(信長次男)の末裔

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信雄は小牧・長久手の戦いで徳川家康と組んで秀吉と戦うものの講和、伊賀国10万石を召し上げられ服属するにいたった。小田原征伐の後に国替え(従来の尾張・北伊勢5郡(桑名・員弁・朝明・三重・河曲)98万石[12]から家康の旧領・三遠駿と甲信(上杉領の北信を除く)119万石[13]への転封)をめぐって秀吉と対立し、改易となった。ほどなく許されて、御伽衆として秀吉・秀頼父子に仕えた。

長男・秀雄は父とは別に越前大野5万石を与えられていた。所領は、さほど大きくなかったものの官職は参議公卿・上級の公家)に叙され「大野宰相」と称され他の大大名と位の上では並んでいた。豊臣政権内では従弟の織田秀信とともに秀吉の旧・主家として優遇され席次も上位に列したが、関ヶ原で西軍に属し改易となった(なお、前述のように信雄・秀雄父子が秀吉から一旦は織田宗家の家督を認められていた可能性が高い)。

次男・重雄、三男・高雄は早世した。

信雄自身も関ヶ原で西軍に与したため、いったん所領の1万8千石を没収された。大坂冬の陣の直前に大坂城から退去。豊臣家滅亡後には、大和国宇陀郡および上野国甘楽郡などで5万石余を与えられ、大名に復帰した。

信雄の長男である秀雄は父に先立って病死したため、四男・信良が継ぎ、この系統が上野小幡藩、後に出羽高畠藩天童藩の2万石の大名となった。

また、五男・高長の系統が大和宇陀松山藩3万1千石(のち2万8千石)、後に丹波柏原藩2万石の大名となった。信良の子・信昌の家臣団は、信昌の後見人という立場の高長が自ら宇陀松山を領有することに反対し、「宇陀も織田信良家(小幡藩)の所領である」と主張したが、幕府は高長の相続を認めた。

宇陀松山藩主・織田高長の三男・長政は3,000石を分け与えられて分家し、交代寄合となり、その子孫は高家旗本になった。明治時代から昭和時代にかけて活躍した芸術家織田一磨は直系の子孫である。さらに、長政の次男・信清は300石を分け与えられて分家し、旗本になった。

信良系・高長系の両織田家ともに信長の末裔ということで、小藩でありながら幕府から準国主(国持並)[注釈 1]の優遇を受けた。しかし、江戸時代中期に、それぞれ明和事件宇陀崩れにより、陣屋(無城)大名に降格された。高長系織田氏は、家格引き下げだけでなく、さらに2万石へ減封となった。

柏原藩織田家(高長系)[注釈 2]は以後も騒動や不祥事が続き、信旧信憑信守信古の四代にわたり藩主の地位をめぐるお家騒動(「秘命騒動」および「保野騒動」)が起きている。信貞の代で信長の男系は絶え、細川氏黒田氏などから養子が入る。また信民は、拝領した江戸屋敷に町人を住まわせて金品を受領していたのが発覚、下屋敷を没収される。

天童藩織田家(信良系)は、財政再建に成功した隣藩・上杉家の助言を得て、米沢藩から淡水魚の提供と工匠の派遣、豪商からの資金提供[注釈 3]などを受け、稚魚の養殖や将棋駒の製造、浮世絵の販売[注釈 4]、紅花の専売を始める[14]。手彫りの将棋駒や「左馬」の工芸品はのちに天童の特産品となる。

その他、天童藩・柏原藩の両織田家は庶子には津田姓などを与え、家臣として分家させた。具体的には、宇陀松山藩主・織田高長の五男津田頼房の系統や高畠藩主・織田信浮の十男・津田長郷の系統などをあげられる。

その他の信長の子の末裔

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信長の三男・信孝は、秀吉との抗争に破れたのち天正11年(1583年)に自害。四男・羽柴秀勝(於次丸)は、天正13年(1585年)に病死。五男・信房(勝長)は、本能寺の変では長兄の信忠と共におり、二条新御所で戦死した。信房の長男・勝良前田利長に仕え、600石を知行した。

信長の六男・信秀から十一男・長次までの息子たちは秀吉の家臣となった。しかし関ヶ原の合戦で、息子たちの多くは西軍に属して没落した。

六男・信秀は、父信長より美濃の揖斐に所領を与えられた。秀吉が権力を掌握すると、近江国栗太郡[注釈 5]に移された。関ヶ原以前に死去。長男の重治は理由不明ながら父の遺領を継げず、次男・虎法師も賊徒に殺害されてしまい、家は絶家となった。

七男・信高の系統は徳川幕府の旗本となり、後に高家旗本になった。近江国内で2,000石余りを領有し、9代・信真で維新を迎えている。

八男・信吉は、秀吉から近江国神崎郡および犬上郡で2千石[注釈 6]を与えられる。関ヶ原では西軍の大谷吉継に属し、主将吉継はじめ大半の同陣諸将が討ち死にしたものの、信吉は戦場を離脱した。戦後に改易となり、長男・良甫の子である吉雄は京極高国の家臣になった。

九男・信貞も秀吉から近江国の神崎郡、蒲生郡内に1,000石の所領を与えられたが関ヶ原後に改易。長男信次は病気がちであったが、その子(信貞の孫)である貞幹は、尾張藩主・徳川光友に召し抱えられて、家老にまで抜擢された。また、貞幹の次男・長居は分家し、同じく尾張藩に仕えた。

信貞の次男・織田貞置は、寛永元年(1624年)、父に代わって再び1,000石余が与えられ旗本(のちに高家)となった[注釈 7]。後に分知により700石余りに減った。

貞置の三男・貞則、四男・貞輝は分家し、それぞれ旗本になった。静岡藩主・徳川家達に仕えた織田泉之は貞輝の子孫である。

貞置の津田長経は、高家織田家の嫡子であったものの、病気のために嫡子の地位を退き、近江国神崎郡河合寺村に閉居した。その子孫である織田瑟瑟津田貞秀の長女・政江)は江戸時代後期画家として知られる。

十男・信好も秀吉の家臣になり、のちに茶人となったが慶長14年(1609年)に病死。十一男・長次は、関ヶ原では兄・信吉と同じく西軍の大谷吉継に属し、戦場から脱出できず戦死した。ほかに信忠の上に、庶長子信正がいたという説があるが、実在したかまた信長の実子か不明である[注釈 8]

信長の弟の末裔

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織田信勝
織田信長の弟・信行(信勝)の子孫は、2家が旗本になっている。信行の孫・昌澄藤堂高虎豊臣秀頼に仕え、豊臣家の滅亡後は近江国内に2,000石を与えられて、旗本に取り立てられた。その子・信高は三男・信英に500石を分け与え、旗本として分家させた。
織田信包
織田信長の弟・織田信包は、関ヶ原の戦いで西軍に属したものの、大名として存続を許された。丹波柏原藩[注釈 9]主となり、三男の信則が家督争いのすえに相続したが、孫・信勝のときに無嗣断絶した。ただし、改易に際して信包の四男・信当は幕府から3,000石を与えられて、旗本として召し抱えられた。
なお、信包の長男・信重は父とは別家として伊勢林藩1万石を領有する大名であったものの、父の死後に弟・信則と遺領である丹波柏原3万6千石の相続争いをおこして、改易となった。その子孫は肥後熊本藩細川家の家臣になった。
織田長益系(有楽流
織田信長の弟で有楽斎こと織田長益は、関ヶ原の合戦で東軍に属し、加増されて摂津味舌3万石の大名となった(味舌藩)。ただし、戦後は大坂城にあって豊臣秀頼の補佐にあたった。豊臣家の滅亡後、長益は隠居し、四男・長政と五男・尚長に各1万石を分け与えた。長政の子孫は大和戒重藩芝村藩の藩主、尚長の子孫は大和柳本藩の藩主となった。
また、関ヶ原の合戦後、織田長益の長男庶長子)・長孝美濃野村藩1万石の大名に取り立てられたものの、その子・長則のときに無嗣改易となった。ただし、長則の弟・長政の子孫は、加賀藩前田家の家臣になった。
なお、長益自身が領有した(支藩を分与後の)味舌藩1万石は、次男(嫡男)・頼長の子である織田長好に継がせる予定であったが、届出を出さないうちに長益が死去してしまったため断絶した。
長好は、有楽流宗家の再興を画策したが、父・頼長が「猪熊事件」への関与や「大坂の陣」での牢人衆との指揮権をめぐる紛争のあげく大坂城退去など、印象が悪かった点もあり実現しなかった。
長益の子で残る三男・俊長だけは父と不和であり、強制的に出家させられたり、勝手に還俗して叱責されたりで長益から所領の分与が得られなかった。のちに肥前鹿島藩主の鍋島直朝に仕えたという[注釈 10]
柳本藩織田家(尚長系)は、宝永6年(1709年)、秀親朝廷からの使者の御馳走役と同僚への指南役を命じられるが[注釈 11]、同役への指導が厳しく[注釈 12]前田利昌の恨みを買い刺殺された。秀綿の代には、明和6年(1769年)1月には百姓が重税に反対して強訴を起こす。享和2年(1802年)12月にも百姓による年貢軽減を求める一揆が発生し、織田軍と百姓との間で乱闘による死傷者が多数出ている。さらに文政13年(1830年)には原因不明の火事により柳本屋敷が全焼する。幕末には信陽が無城から城主格に昇進した。維新の動乱期には、信成は再三にわたって上洛延期を申請し、様子見に徹した。
芝村藩織田家(長政系)は、輔宜の代に幕府領13000石を預けられる。長教の代には預かり地9万3430石を任されるようになった。自領と合わせ10万石を超え織田家としては、岐阜13万石で関ヶ原東軍主力を迎え撃った織田秀信以来の広大な統治領域である。ところが、年貢増徴に対して預かり地における百姓一揆が頻繁に発生し、遂には百姓たちが芝村藩を批判して織田家からの預かり地撤回を奉行所に要求するに至った(「芝村騒動」)。さらに寛政6年(1794年)に芝村藩の代官による不正が発覚し、全ての預かり地召し上げと藩主に差控の処罰を受けた。
藩内においても、明和5年(1768年)末には年貢減免を求める強訴が発生する。安政6年(1859年)には藩の借金は銀2693貫(金換算で5万両。五公五民の1万石大名では、年貢の10年分に相当)という莫大なものになったと言われている。幕末に長易は尊王攘夷派の天忠組追捕にあたったが、その後は中立的立場を取るようになり、戊辰戦争では官軍に参加した。
有楽流の織田氏は、信雄系のような特別な待遇(官位や江戸城での席次)は受けられなかったものの、信長以来の勤王の家柄ということや畿内の大名ということもあって、勅使の接待役や崇神天皇陵の補修工事など、勤王関係の役目を命じられている。柳本藩は幕末には城主格に昇格した。尚長系、長政系の両家とも、領内での一揆・強訴・暴動がかなり頻繁に起きている。なお、それぞれ藩主の庶子は渡会や溝口などといった別姓を称し、家臣になった。

明治以降

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幕末維新期の大名織田家当主のうち柏原藩織田信親柳本藩織田信及芝村藩織田長易の3名は戊辰戦争で官軍に属したので特に何の問題もなく、明治2年1869年)の版籍奉還でそれぞれの藩の藩知事に任じられるとともに華族に列し、明治4年1871年)の廃藩置県まで藩知事を務めた[15]天童藩織田信敏のみ戊辰戦争で賊軍に与したことで隠居を命じられて、代わって弟寿重丸に2000石減封の1万8000石の相続が許された。その後は他の3家と同様に藩知事に任じられると同時に華族に列し廃藩置県まで藩知事を務めた[16]

版籍奉還の際に定められた家禄は天童織田家が765石、柏原織田家が919石、芝村織田家が521石、柳本織田家が660石である[17][注釈 13]。明治9年の金禄公債証書発行条例に基づき家禄の代わりに支給された金禄公債の額は、天童織田家が1万5896円72銭3厘(華族受給者中274位)[19]、柏原織田家が2万6191円20銭5厘(華族受給者中183位)[20]、芝村織田家が1万8125円(華族受給者中244位)[21] 柳本織田家が2万2940円15銭3厘(華族受給者中206位)[22]

高家旗本だった3家の織田家はいずれも早期に朝廷に帰順したため本領を安堵されて幕臣から朝臣に転じ、中大夫席を与えられた。明治2年(1869年)に中大夫以下の称が廃されると士族に編入された[23]

1884年明治17年)の華族令制定で華族が五爵制になると旧・大名の織田4家は爵位基準を定める『叙爵内規』に基づき旧・小藩知事[注釈 14]として子爵家に列した[24]

『叙爵内規』の前の案である『華族令』案や『叙爵規則』案(『爵位発行順序』所収)では元・高家が男爵に含まれており、旧・高家の織田家3家も男爵候補に挙げられていたが、最終的な『叙爵内規』では高家は対象外となったため士族のままだった[23]

読売新聞1892年(明治25年)11月24日付けの朝刊で織田信長三男信孝末裔を名乗る大阪府平民織田信義が叙爵請願書を大阪府知事山田信道に提出していることが確認できる。信長の息子で信孝の家系だけ旧幕時代に大名にも旗本にもなれなかったことを指摘し、信孝系救済のための叙爵を求めたが、不許可に終わっている[25]

1917年大正6年)には織田信長に正一位追贈された。これは当時の政府の議会対策で貴族院議員である旧・大名家当主たちの祖先の戦国武将に位階が奮発された結果、彼らが仕えた信長や秀吉にも最高位を与える必要が出たためといわれる。2024年令和6年)現在のところ正一位に叙された人物は信長が最後となっている[26]

昭和前期に天童織田子爵家の邸宅は東京市牛込区市谷薬王寺町[27]、柏原織田子爵家の邸宅は東京市目黒区大岡山[28]、柳本織田子爵家の邸宅は東京市淀橋区百人町[29]、芝村織田子爵家の邸宅は東京市麻布区霞町[30]にあった。

天童織田家の織田信恒子爵は日刊アサヒグラフ編集部に勤務していた1922年(大正11年)に椛島勝一絵『正チャンの冒険』の案と文を担当して漫画のフキ出しを初めて採用した。この漫画は子供たちの人気を得て「正ちゃん帽」を流行させた。1928年昭和3年)からは貴族院の子爵議員を務め、農林政務次官、静岡電鉄社長、NHK理事などを歴任。戦後に爵位を失った後には京浜急行取締役、京浜自動車工業社長、川崎さいか屋取締役、財団法人安達峰一郎記念館理事長などを務め実業家として活躍した[31]

柏原織田家の織田信親子爵は、宮内省に勤務した[32]。同家の現在の当主コピーライター織田孝一である。歴史雑誌・ムック[注釈 15]に度々寄稿している。

芝村織田家は代々有楽流の家元を務めており、現在の当主織田宗裕も有楽流の家元である[34]

1990年代にテレビタレントとして活躍した僧侶の織田無道は織田信長の子孫であると自称していた[35]

フィギュアスケート選手だった織田信成も信長の末裔と自称している[注釈 16]

系譜

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凡例
実線は実子、点線は養子、太字当主、□は名不詳。
 著名な事蹟がない人物、傍系の人物については掲載されていないこともある。

信長公記による系譜

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信長公記以外に基づく系譜

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系図には諸説あるため併記する

尾張守護代家

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『清洲町史』の信長以前の織田氏系図(推定)。藤原将広と織田常松を同一人物とし、織田常竹をその兄弟としている。

藤原道意
 
 
 
 
 
 
 
 
信昌
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
織田常松
藤原将広
 
織田常竹
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
教長
 
郷広久長良信
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
敏広広近
 
敏定信定
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
寛広
 
広遠
 
津田武永
 
寛定
 
寛村
 
信秀
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
広高
(伊勢守家)
達定
(大和守家)
信広
 
信長
(弾正忠家)
 
信勝

岩倉織田氏(伊勢守家)

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織田郷広
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
敏広
 
広近
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
寛広
 
寛近
 
 
 
 
 
 
 
 
達定?
[注釈 17]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
広高
 
 
 
 
?
[注釈 18]
 
 
 
 
信安
 
 
 
 
信賢

清洲織田氏(大和守家)

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織田常竹1
 
 
 
 
久長2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
敏定3常寛
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
寛定4
 
 
 
 
信定?
 
藤左ヱ門家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
寛村5
 
弾正忠家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
達定6
 
 
 
 
達勝7
[注釈 19]
 
 
 
 
信友8
[注釈 20]

藤左衛門家(小田井織田氏)

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因幡守家

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弾正忠家(勝幡織田氏)

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勝幡系織田氏

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織田信雄系統

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織田長政系統(信雄系統の分流)
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織田長政
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
信明
 
信清
 
長喬
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
信栄
 
信栄信安
 
信方
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
信之
 
信憑
 
信邦
 
信浮
 
信序
 
 
 
 
 
 
信味信虎
 
 
 
 
信存
 
 
 
 
信愛
 
 
 
 
信徳
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
一磨

織田信高系統(旗本高家)

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織田信勝系統

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織田信包系統

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織田信包
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
信当
 
信則
 
信重
 
寿圭
摠見寺住職
 
 
 
 
 
信相
 
信勝
 
 
 
信政
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
信義
 
信寛
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
信昆
 
信直
 
信寛
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
信彭
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
信与
 
信周
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
信裕

織田長益系統

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織田信貞系統

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楽田城の織田氏

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織田信次系統

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織田勝長系統 (織田勝長の子の津田勝良は、前田利長に仕え子孫は代々、加賀藩家臣を務めた。)

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織田信長勝長津田勝良ー長政ー喬長ー信要ー兵蔵ー信節ー伝八郎ー主税ー信勝ー則長

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高家織田家

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脚注

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注釈

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  1. ^ 半国もしくは15万石前後の大名。丹羽・立花・榊原など。四品になると国主と同じ大広間に進む。
  2. ^ 柏原では、信包系(信勝のときに無嗣断絶した「前の織田」)と区別して「後の織田」とも呼ばれる。
  3. ^ 出羽の本間家は佐渡の元・大名で、上杉氏転封の折に山形へ移り現在の酒田市本町に「新潟屋」の暖簾を掲げ商売を始めたという。
  4. ^ 名目は「献金をした者には江戸で人気の絵画を褒美に与える」と称したが、実質的な絵画の領内販売に近い。葛飾北斎小林平八郎央通曾孫と公言し、また、歌川広重は上杉家の畠山氏や織田家の吉田氏と交流があったとされる。
  5. ^ 石高は不明だが、数万石と思われる。
  6. ^ 『近江輿地志略』や『淡海温故録』によると2万石となっている。
  7. ^ 寛永元年当時、父信貞は浪人中であったが、貞置による再興とは別に、微禄で召し抱えられたという説もある。
  8. ^ 『系図纂要』や『地下家伝』以外には記されていない。江戸幕府の公的な系譜集『寛政重修諸家譜』にも記載されておらず、信長の子の「織田信正」なる人物は同時代の史料には一切登場しないため、実在については確証がない。
  9. ^ 柏原では、信雄系(幕末まで続く「後の織田」)と区別して「前の織田」とも呼ばれる。
  10. ^ 時系列でみて辻褄が合わない点があり、信憑性が低いという説もあるが、俊長の末裔家を称する肥前鹿島藩士の伝承が残っている。
  11. ^ 高家肝煎で上杉一族でもある畠山義寧は、赤穂事件に懲りて指南役の権限を御馳走役首座の秀親に委譲している。
  12. ^ 老中からの奉書を前田に見せない等の嫌がらせがあったという説もあり。
  13. ^ 明治2年6月17日の版籍奉還時、藩財政と藩知事の個人財産の分離のため、藩の実収入(現米)の十分の一をもって藩知事個人の家禄と定められた[18]
  14. ^ 旧・柏原藩は現米9190石(表高2万0000石)、旧・天童藩は現米7650石(表高1万8000石)、旧・柳本藩は現米6600石(表高1万石)、旧・芝村藩は現米5210石(表高1万石)でいずれも現米5万石未満の旧・小藩に該当[24]
  15. ^ 織田孝一自身は、「織田の本家は天童」・「うちの柏原藩は既に信長の血筋ではない(男系では交代寄合の大和平野氏)」と前置きをしたうえで、織田家の末裔として意見を述べている[33]
  16. ^ これについて織田孝一は「私の家と彼の家はまったく関係がないし、私は彼についてまったく知らなかった。というのは、同じ織田家でも大名家は、旗本家とはほとんど交流がなかったからだ。さらに明治以降は大名家は華族になり、別世界で生きていたからなおさらである。大名家だった織田家はどこも、彼がフィギュアスケートで有名になるまで、そんな家系があることすら知らなかった。伝え聞くところ、信成君は信長の七男の末裔で、江戸時代は旗本高家であったそうだ。織田信長には11人も息子がいて、何人かが江戸時代に旗本になった。そうした家の一つなのだろう。途中の何代かが不明だとも聞いたが、私にはその真偽を判断することはできない。」と述べている[36]
  17. ^ 達定は継いでいないとする説もある。
  18. ^ 広高以降の当主は大和守家出身とされる信安の代まで不明である。
  19. ^ 達勝の父は織田勝秀ともされ、出自については解っていない。
  20. ^ 信友の父は織田因幡守ともされ、出自については解っていない。
  21. ^ 父は織田敏定または敏信とされ確定されていない。
  22. ^ 父は織田敏定とも。
  23. ^ 傍流。『系図纂要』にあるのみで、公式の系図には記されず。
  24. ^ 織田信栄四男
  25. ^ 織田信栄次男
  26. ^ 織田信栄五男
  27. ^ 細川行芬の三男
  28. ^ 血筋上の先祖は藤原北家勧修寺流(信恒は相馬氏からの養子で、相馬氏には江戸時代佐竹氏より養子が入っており、その佐竹氏には室町時代上杉氏より養子が入っているため)。
  29. ^ 血筋上の先祖は旗本平野氏である(織田信親の実父の山崎治正は平野氏よりの養子)。
  30. ^ 旗本・能勢頼寛の三男。
  31. ^ 旗本・織田信義の次男。
  32. ^ 天野康建の子
  33. ^ 遠山友寿の五男
  34. ^ 土岐頼左の子
  35. ^ 松平正淳次男

出典

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  1. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)等『織田氏』 - コトバンク
  2. ^ 信長は平氏ではない! 祖先の墓発見2011年11月2日・産経新聞)
  3. ^ 劔神社と織田信長公 (日本語) - 劔神社
  4. ^ 橋本政宣「[おた]信長と[とよとみの]秀吉」(初出:『古文書研究』44・45号(1997年)/所収:橋本『近世公家社会の研究』(吉川弘文館、2002年)
  5. ^ 尾張守護代沿革小稿 河村昭一
  6. ^ 蔭涼軒日録・延徳3年11月19日条
  7. ^ 蔭涼軒日録・明応元年4月1日条
  8. ^ 柴裕之 『清須会議』 戎光祥出版〈シリーズ【実像に迫る】017〉、2018年平成30年)。ISBN 978-4-864-033015 pp32 - 46.
  9. ^ 柴裕之 『清須会議』 戎光祥出版〈シリーズ【実像に迫る】017〉、2018年(平成30年)。ISBN 978-4-864-033015 pp71 - 73.
  10. ^ 柴裕之 『清須会議』 戎光祥出版〈シリーズ【実像に迫る】017〉、2018年(平成30年)。ISBN 978-4-864-033015 pp90 - 91・99 - 101.
  11. ^ 柴裕之 『清須会議』 戎光祥出版〈シリーズ【実像に迫る】017〉、2018年(平成30年)。ISBN 978-4-864-033015 pp100 - 102.
  12. ^ 『三重県の歴史』山川出版社、154頁。 
  13. ^ 太閤検地『当代記』、『大日本六十六国並二島絵図』、『日本賦税』、慶長3年(1598年)など。wikipedia「石高」記事も参照。
  14. ^ 「江戸三百藩・第60号」(ハーパー・コリンズ)、「“御家”立て直し」中江克己(青春出版社)など
  15. ^ 新田完三 1984, p. 327/403 - 404/862.
  16. ^ 新田完三 1984, p. 558.
  17. ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会 1985, p. 16.
  18. ^ 刑部芳則 2014, p. 107.
  19. ^ 石川健次郎 1972, p. 54.
  20. ^ 石川健次郎 1972, p. 48.
  21. ^ 石川健次郎 1972, p. 52.
  22. ^ 石川健次郎 1972, p. 49.
  23. ^ a b 松田敬之 2015, p. 186/188.
  24. ^ a b 浅見雅男 1994, p. 152.
  25. ^ 松田敬之 2015, p. 188.
  26. ^ 叙位最高位「正一位」 最後に贈られたのは1917年の織田信長 SAPIO 2016年1月号
  27. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 253.
  28. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 304.
  29. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 331.
  30. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 408.
  31. ^ 新訂 政治家人名事典 明治~昭和『織田信恒』 - コトバンク
  32. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus『織田信親』 - コトバンク
  33. ^ 「歴史と旅」・「歴史読本」ほか
  34. ^ 橿原神宮で3年ぶり献茶祭 有楽流宗家「奉仕に感謝の気持ち」 (日本語) (奈良新聞2022年令和4年)5月6日)
  35. ^ 除霊僧織田無道さん死す、68歳 9日未明…がんで (日本語) (サンスポ2020年(令和2年)12月12日)
  36. ^ 「信成君がメダルを取れなかった理由」織田家18代当主が分析 週刊朝日 2015年(平成27年)9月7日 (日本語)

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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