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織田郷広

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
織田郷広
時代 室町時代中期
生誕 不明
死没 宝徳3年(1451年
別名 郷廣、常松[1]
幕府 室町幕府 尾張守護代
主君 斯波氏
氏族 岩倉織田氏(伊勢守家)
父母 父:織田常松[2]
前野家文書上の父:藤原将広
兄弟 郷広久長?[2]良信?[2]常竹?[1]
敏広[2]広近[2]
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織田 郷広(おだ さとひろ)は、室町時代中期の武将尾張国守護代

生涯

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織田教信または織田常松の子として誕生。「郷」の一字は斯波義郷から偏諱を賜ったものと推定される。

郷広の被官・坂井七郎右衛門広道(号:性通)が公卿・万里小路時房の代官と称して寺社領・本所領を横領。その後、郷広の推挙で時房は坂井を実際に代官としたが、横領行為を止めないため時房は管領・細川持之に陳情した。

嘉吉元年(1441年)、郷広はその責任を逃れるため、逐電した。

嘉吉2年(1442年)、郷広の跡を受け、次代・織田敏広(嫡男、または甥とされる。織田久広と同一人物とも)が尾張守護代となる[3]

宝徳2年(1450年)、郷広は守護代の再任を計るため8代将軍足利義政の乳母・今参局に働きかけ、今参局の進言で義政より赦免の内諾を得る。しかし、甲斐常治の意を受けた義政の生母・日野重子がこれに怒り、困惑した義政が赦免を反故にしたことにより断念した。幕府の後ろ盾を得ることを諦め、宝徳3年(1451年)、直接主家の斯波義健に許しを請うが受け入れられなかった。そして、将軍・義政の上意を得た甲斐常治に派遣された敏広らによって、郷広は越前国にて自害に追いやられた[4]

異説

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『前野家文書』「武功夜話」では、織田伊勢守入道常松と郷広を同一人物としてる。しかし、この文書の信憑性については諸説ある。また『建内記』の1431年(永享3年)3月8日の条文には「織田故伊勢入道」とあり、既に故人であり、この両者を別人としている。

脚注

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  1. ^ a b 前野家文書『武功夜話
  2. ^ a b c d e 『清州町史』掲載の織田氏推定系図
  3. ^ 万里小路時房の日記『建内記』
  4. ^ 『応仁略記』には「・・・久広(敏広)惣領と成って一錯乱終にして彼が親郷広越前にて生害」とある。

出典

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  • 信長公記
  • 『清州町史』
  • 『建内記』
  • 『応仁略記』