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織田信古

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
織田信古
時代 江戸時代後期
生誕 寛政6年(1794年
死没 弘化4年6月10日1847年7月21日
改名 長祥(初名)→信古
別名 通称:義之助、豊次郎、織部
墓所 東京都練馬区広徳寺
官位 従五位下近江守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉家慶
丹波柏原藩
氏族 織田氏(信雄系高長流)
父母 織田信応:不詳
養父:織田信守
正室:織田信守の長女・安子
良性院
養子:信貞
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織田 信古(おだ のぶもと)は、江戸時代後期の大名丹波国柏原藩の第6代藩主通称は義之助、豊次郎、織部。官位従五位下近江守高長系織田家9代。

生涯

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寛政6年(1794年)7月、柏原藩世嗣だった織田信応の長男として江戸にて誕生した。初名は長祥。

信応は3代藩主・信旧の3男で、分家から養子入りした4代藩主・信憑の養嗣子だった。そのため、信古は柏原藩織田家の正統な後継者の立場にあった。信応の死去に伴って信守の嫡子になったが、信守は実子である長男信貞を後継者にするため、信古の退隠を画策する。いわゆる「秘命騒動」である。しかし、一部の家臣の強い反発により、信守は信古を婿養子とし、後継者として認める。

文政9年(1826年)9月1日、第11代将軍・徳川家斉御目見する。文政12年(1829年11月16日、信守の隠居により家督を相続する。同年12月16日、従五位下・近江守に叙任する。

天保9年(1838年)1月、信守の側室保野の下女しまが老中脇坂安董に、信守と保野が柏原に幽閉されようとしていると直訴に及んだ。いわゆる「保野騒動」である。柏原で隠居していた信守は、江戸に移って暮らそうとした。これに対し、重臣は藩の支出増加を心配し、保野を江戸から呼び寄せることで思いとどまらせようとした。保野の下女しまはこれを誤解したのである。天保10年(1839年8月16日、幕府はそうした事実はないとしながらも、騒動を起こしたことを理由に藩主信古に逼塞、先代藩主信守に遠慮を命じるなど、関係者を処罰している。天保11年(1840年)1月17日、幕府は浅草新寺町の江戸上屋敷を収公し、新たに三田小山の旧間部邸を与える。

天保13年(1842年3月9日に隠居し、養子・信貞に家督を譲る。弘化4年(1847年)6月10日、江戸において死去、享年54。広徳寺に葬られた。

系譜

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