織田信古
時代 | 江戸時代後期 |
---|---|
生誕 | 寛政6年(1794年) |
死没 | 弘化4年6月10日(1847年7月21日) |
改名 | 長祥(初名)→信古 |
別名 | 通称:義之助、豊次郎、織部 |
墓所 | 東京都練馬区広徳寺 |
官位 | 従五位下・近江守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉→家慶 |
藩 | 丹波柏原藩主 |
氏族 | 織田氏(信雄系高長流) |
父母 |
父:織田信応、母:不詳 養父:織田信守 |
妻 | 正室:織田信守の長女・安子 |
子 |
良性院 養子:信貞 |
織田 信古(おだ のぶもと)は、江戸時代後期の大名。丹波国柏原藩の第6代藩主。通称は義之助、豊次郎、織部。官位は従五位下・近江守。高長系織田家9代。
生涯
[編集]寛政6年(1794年)7月、柏原藩世嗣だった織田信応の長男として江戸にて誕生した。初名は長祥。
信応は3代藩主・信旧の3男で、分家から養子入りした4代藩主・信憑の養嗣子だった。そのため、信古は柏原藩織田家の正統な後継者の立場にあった。信応の死去に伴って信守の嫡子になったが、信守は実子である長男信貞を後継者にするため、信古の退隠を画策する。いわゆる「秘命騒動」である。しかし、一部の家臣の強い反発により、信守は信古を婿養子とし、後継者として認める。
文政9年(1826年)9月1日、第11代将軍・徳川家斉に御目見する。文政12年(1829年)11月16日、信守の隠居により家督を相続する。同年12月16日、従五位下・近江守に叙任する。
天保9年(1838年)1月、信守の側室保野の下女しまが老中・脇坂安董に、信守と保野が柏原に幽閉されようとしていると直訴に及んだ。いわゆる「保野騒動」である。柏原で隠居していた信守は、江戸に移って暮らそうとした。これに対し、重臣は藩の支出増加を心配し、保野を江戸から呼び寄せることで思いとどまらせようとした。保野の下女しまはこれを誤解したのである。天保10年(1839年)8月16日、幕府はそうした事実はないとしながらも、騒動を起こしたことを理由に藩主信古に逼塞、先代藩主信守に遠慮を命じるなど、関係者を処罰している。天保11年(1840年)1月17日、幕府は浅草新寺町の江戸上屋敷を収公し、新たに三田小山の旧間部邸を与える。
天保13年(1842年)3月9日に隠居し、養子・信貞に家督を譲る。弘化4年(1847年)6月10日、江戸において死去、享年54。広徳寺に葬られた。