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織田長孝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
織田長孝
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 不明
死没 慶長11年7月5日1606年8月8日
改名 赤千代(幼名)→長孝
別名 長一、通称:源二郎
戒名 照巌玄高
官位 従五位下河内守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家康秀忠
美濃野村藩
氏族 織田氏(長孝流)
父母 父:織田長益
兄弟 長孝頼長俊長長政尚長、宥諌、松平忠頼正室、湯浅直勝室、永福院殿
正室:なし、側室:前田長種の娘ほか
長則長政(織部)、右京、村井長家不破光昌室、岡田善同正室、木村重成室、津田監物室、本多景次正室
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織田 長孝(おだ ながたか)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名美濃国野村藩初代藩主。別名は長一。通称は源二郎。官位従五位下河内守

生涯

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織田長益(有楽)の長男として誕生した。幼名は赤千代。

関ヶ原以前には美濃大野村で500石を領していた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際し、長益と共に東軍に属する。本戦においては西軍の武将である戸田重政に槍を突き、家来らと共に討ち取るという白兵戦を演じ、また重政の嫡男である戸田内記も討ち取るという武功を挙げた。この時、村正の作である槍を使用しており、戦後検分した徳川家康の指を傷つけたという逸話がある。この武功により美濃大野郡内において1万石の所領を与えられ、野村藩を立藩した。

慶長11年(1606年)7月5日に死去。法号は照巌玄高。

なお、長孝は長益の長男であるものの、生母は正室(平手政秀の娘)ではなく、正室所生の次男・頼長が嫡男であった。そのため、長孝の関ヶ原の功による加増分は長益の所領に含まず、独立し別家となる形で治めることとなった。

系譜

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正室はいない。子女は4男5女。

脚注

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  1. ^ 本多康俊の子か