織田信賢
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 |
通称:兵衛、左兵衛 大和守信武、信知 |
官位 | 伊勢守 |
氏族 | 岩倉織田氏(伊勢守家) |
父母 | 父:織田信安、母:織田信定娘・秋悦院? |
兄弟 | 信賢、信家、剛可正仲、津田正盛 |
子 | 養子:津田一英[1] |
織田 信賢(おだ のぶかた)は、戦国時代の武将。通称は兵衛、左兵衛。官位は伊勢守。尾張国岩倉城主。
略歴
[編集]尾張上四郡守護代「織田伊勢守家」(岩倉織田氏)の織田信安の嫡男として誕生。母は織田信定の娘・秋悦院か?。
父・信安が信賢の弟・信家を寵愛し跡継ぎに定めようとしたため、居城岩倉城から父と弟を追放し新城主となった。末森城主・織田信行、美濃国の斎藤義龍らと結んで、敵対関係にあった清洲三奉行の一家「織田弾正忠家」出身の織田信長に対抗するが、永禄元年(1558年)、浮野の戦いで信長に敗れ、翌永禄2年(1559年)、居城岩倉城も包囲される。数ヶ月の篭城戦ののちに信賢は降伏し、追放処分となった。
その後の行方は不明だが、前野家文書『武功夜話』には、前野小兵衛の助けあって信賢美濃国に落ちゆくとあり、このときに自刃したもしくは旧臣の山内一豊に土佐国に招かれ、200石を給したという説があり、山内家墓所の日輪山真如寺に信賢の墓がある。