一色氏
一色氏 | |
---|---|
| |
本姓 | 清和源氏(河内源氏)義国流足利氏流 |
家祖 | 一色公深 |
種別 | 武家 |
出身地 | 三河国一色荘 |
主な根拠地 | 丹後国 |
著名な人物 |
一色範氏 一色義貫 一色義直 以心崇伝 |
支流、分家 |
土屋氏(武家) 幸手一色家(武家) |
凡例 / Category:日本の氏族 |
一色氏(いっしきし)は、日本の氏族(武士)。清和源氏義国流で足利氏の一門。足利泰氏の子一色公深は、三河国吉良荘一色(愛知県西尾市一色町)を本貫とし、一色氏を名乗った。
室町幕府開府当初は九州探題として筑前国にあったが、後には侍所所司に任ぜられる四職の筆頭となり、また若狭国・三河国・丹後国などの守護職を世襲した。戦国時代にも丹後の大名として続いたが、安土桃山時代に至り細川藤孝・忠興らの侵攻によって滅亡した。
他に
- 美濃国の戦国大名斎藤義龍が一色氏を称する。
- 清和源氏頼光流。土岐頼益の養孫である土岐成頼3代孫である土岐頼栄の子孫が一色氏を称する。
- 足利氏支流。吉良有義の子孫が一色氏を称する。
- 足利氏支流。吉良定堅の子孫が一色氏を称する。
- 藤原北家良門流の勧修寺流。犬懸上杉家上杉憲藤の孫である上杉教朝の子孫が一色氏を称する。式部一色氏をこの系統とする説がある[1]。
- 菅原氏流。唐橋在通(足利義昭より偏諱の授与を受けて一色昭孝とも名乗る)の子である在種の子孫が一色氏を称する。
経歴
[編集]九州経略の失敗
[編集]始祖一色公深とその子頼行は御家人として鎌倉幕府に仕える。建武3年(1336年)、頼行と異母弟範氏は、建武の新政から離反した足利尊氏の九州落ちに従い、尊氏が多々良浜の戦いで南朝方に勝利して東上した後も、九州経略のために留められた。延元2年(1337年)、犬塚原の戦いで南朝方の阿蘇惟澄と菊池武重に大敗し、頼行は討死した。
範氏とその子直氏は鎮西管領(後の九州探題)に任ぜられるも、九州においては菊池氏などの南朝方が強かった上、観応の擾乱で幕府方が分裂した影響が及び、反尊氏派の足利直冬を擁した少弐頼尚にも押されて、尊氏派の一色氏は振るわなかった。正平8年/文和2年(1353年)、針摺原の戦いで懐良親王を擁する菊池武光軍に大敗を喫し、正平10年/文和4年(1355年)に一色父子は長門国に逃亡した。直氏は、正平11年/延文元年(1356年)に再び九州に下向したが、麻生山の戦いでまたも菊池軍に大敗を喫し、正平13年/延文3年(1358年)に京都に逃亡している。直氏は関東の所領に下り、鎌倉公方に仕える宮内一色氏の祖となった。
鎮西管領(九州探題)としての一色氏は、一時的に肥前や筑後の守護になったものの、安定した守護としての管国[注釈 1]を持てなかっために現地の国人と主従関係を築くことが出来ず、最終的には全てを失った。河村昭一はこの20年間を「一色氏の権力基盤にとってほとんど意義を持たない無駄な時間であったばかりか、この間に他の有力足利一門が着々と政治的、経済的実力を蓄えていったことを考えると、一色氏が守護大名として成長していく上で大きなハンディをもたらしたといえる。」と評価している[3]。
復活
[編集]肥前国の守護だった範光は、父範氏や兄直氏とともに九州から敗退したが、貞治の変で斯波義種が失脚した後の若狭国の守護に任じられ、守護大名として家勢を回復していくきっかけをつかんだ。しかし、そこには厳しい現実があった。1つは斯波義種の守護時代に南朝方だった山名時氏を帰参させるため与えた若狭の今富名が当時の若狭守護領の88%を占め同国最大の都市であった小浜を含むものであったため、守護でありながら所領がほとんどない状態で領国経営を進めなければならなかったこと[4]。もう1つは室町幕府成立後一色氏の任命まで守護がのべ16人に及び平均在任は1年10か月という状況であったため[5]、国人たちは守護に従わずに反抗的な行動を取っていたことである[6]。これに対して範光は、元幕臣の小笠原長房を守護代として派遣し、応安の国人一揆と呼ばれる反乱を鎮圧して国人勢力を排除した[7]。さらに、子の詮範が明徳の乱の戦功で今富名を回復したことで[8]、漸く若狭支配は軌道に乗ることになった。範光は、若狭支配の展開と並行して三河国の守護にも任じられた。
繁栄
[編集]詮範は、若狭・三河に加え尾張の知多・海東2郡の守護に任じられ、明徳の乱の功績で四職家として幕政に参与する重要な家の一つとなる。
その息子である満範は、さらに丹後国を与えられ、加佐郡八田に守護所、その後背にある建部山に建部山城を築いて領国経営に務め最盛期を迎えた。父詮範の没後、満範は若狭などの父の領国も合わせて継承するが、丹後系家臣と若狭系家臣の対立などから若狭国内で権勢を振っていた守護代小笠原氏(小笠原長房の一族)を排除して当主としての権威の確立に努めた。
諸家分立
[編集]その後の一色氏は、満範の3人の息子の家に分かれていく。長男持範は嫡流であったが三河・伊勢へと退いた。次男義範(義貫)は惣領(丹後・若狭守護)の地位を譲り受けた。三男持信ははじめ次兄義範の代官の地位に甘んじたが、後に幕臣として子教親ともども6代将軍足利義教に重用された。
持範の子の時代に一色氏はさらに枝分かれし、一色式部少輔家と一色右馬頭家が興った。式部少輔家と右馬頭家は、かつての守護家として将軍家より時には国持並の外様衆として遇され、名字の地である三河等にも所領を許されたものの、主には将軍家の側近として京都に在住したと思われる。
関東においては、宮内一色氏の一色持家(時家)が鎌倉公方足利持氏に信任され、相模守護に任じられたことが判明している[9]。だが、この任命は幕府の許可を取らずに鎌倉府が一方的に行った人事であり、永享の乱の一因ともなった[10]。
義範(義貫)は、宿老の1人として幕政に参与していたが、将軍足利義教の代になると次第に義教と対立し、永享12年(1440年)、永享の乱で幕府に敗れた鎌倉公方持氏の残党(一色持家ら)を匿った罪で追討を受け、大和国信貴山で自害した。
義教の近習であった教親が家督を継ぎ丹後守護となったものの、一色氏は三河と若狭の守護職を細川持常・武田信栄に奪われ、一時勢力を縮小させた。だが、子のなかった教親の後を義貫の遺児一色義直が継ぐと、丹後及び伊勢半国の守護となり、三河渥美郡・若狭小浜も知行地として手に入れた。また御相伴衆にもなって8代将軍足利義政の信任を受けた。
応仁の乱以降
[編集]応仁元年(1467年)に起こった応仁の乱で、確執のあった隣国若狭の守護武田信賢が東軍に属したのに対抗し、義直は西軍に属し京都の戦で活躍したが、東軍側にあった将軍義政によって丹後・伊勢守護職を解かれた。文明6年(1474年)4月、両軍の間に和議が成立すると、義直は東軍に帰順・隠退、嫡男義春が幕府に出仕して丹後守護を回復した。義春は文明16年(1484年)に19歳で没し、丹後守護職は義直に再度与えられた。
明応2年(1493年)に丹後で起きた叛乱は鎮圧したものの、その後も国衆の叛乱が相次ぐ。文明16年(1484年)に義春が19歳で亡くなり、継承した弟の義秀は明応7年(1498年)に国衆に攻められ自害した。
細川京兆家・若狭武田家連合軍の侵攻
[編集]その後の一色氏の系譜ははっきりしない。自害した義秀には男児がなく、一説によると、分家(知多一色家)の一色義遠の嫡男義有が家督を継承したとされる。
応仁の乱以来、敵対関係にあった管領細川氏の政略で丹後守護の名目が若狭武田氏に奪われ、一色家の求心力は落ち、国人の離反を招いていた。丹後に侵攻してきた細川・武田連合軍にからくも勝利した義有は、幕府に出仕しなくなった。それまでの一色氏は幕府の宿老で在京が普通であったが、義有が拠点を与謝郡今熊野城に移し、以後は本格的に丹後に本拠を構えた。この判断の結果、領国統治が確実になり、府中の街はたいへん栄えた。
義有の跡は一色義清が継承したともいうが、続柄や経緯はよく分からない。義清は京都の室町幕府にも出仕し、将軍家からも認められたが、嗣子がなく、(一色義幸を義有の子ではなく養子とする説では)一色氏嫡流は絶えた。
戦国時代
[編集]丹後守護の座をめぐり若狭武田氏との抗争が激しさを増す一方、国内においては反乱・下克上が続発し、一色氏の勢力は更に衰退していた。中郡・竹野郡・熊野郡・与謝郡は、辛うじて名目上一色氏により治められていたが、若狭と境を接する加佐郡は若狭武田氏の勢力下に置かれ、若狭武田氏の武将である白井氏(千葉白井氏)などの居城も築城された。
そんな混乱の中で、一色氏一門庶家のうちから一色義幸が宗家を継承した(義幸は一色教親の末裔といわれている)。義幸は若狭武田家の勢力を若狭へ押し返し、加佐郡の八田守護所及び建部山城を奪還し一色氏を中興した武将である。守護代延永氏との仲も良好に保ち、若狭武田家家臣である逸見氏が丹後に亡命した際には、これを保護し領地を与え家臣に加えた。
義幸の子義道の時代には、織田信長の命令を受けた明智光秀・細川藤孝の侵攻に遭って拠点を加佐郡中山城に移す。丹後の国人の離反が相次ぎ、義道は天正7年(1579年)に殺害された。
滅亡
[編集]義道の子満信(義定)は信長に実力を認められ一色氏を復興させた。但馬国の山名氏政と共に旧守護家出身でありながら織田政権を構成する一員となることができたのは、戦国武将としての器が備わっていたからであるともいえる。隣国の但馬が羽柴氏と山名氏(出石郡)により分割統治されていたのと同じく、この時代の丹後は北の一色氏と、南の長岡氏(細川藤孝が称した姓。のちの肥後細川氏)の二氏により分割統治されていた。
長岡領との境にある弓木城を改修し武威を誇ったが、信長亡き後、満信は豊臣政権下で長岡氏の居城において長岡忠興(後の細川忠興)によって謀殺された。叔父の義清が一色氏を継承し長岡軍と懸命に戦ったが、最終的には天正10年(1582年)に殺され、丹後における一色氏は完全に滅亡した。
各地の支流
[編集]一色氏の一族は各地に点在しており、関東には鎌倉公方の御一家として幸手一色氏(一色直氏の孫の一色長兼・一色直兼の一族)がおり、古河公方の終焉まで仕え、江戸時代には旗本(寄合)や喜連川藩の家老として続いた。
戦国時代、甲斐国守護武田氏に仕えていた一色土屋氏は武田氏滅亡後、土屋忠直が徳川家康に召出されて上総久留里藩主となる。
織田氏・豊臣氏両家に仕えた一色丹羽氏の丹羽氏次は、江戸時代に三河伊保藩の藩祖となった。なお、同姓で同時代に有名な丹羽氏である丹羽長秀とその一族は良岑氏であり、家系が異なる。
徳川家康の側近として仕えた外交僧以心崇伝は一色氏の末裔であり、崇伝の従兄弟の一色範勝の一族は徳川家旗本として仕えた。しかし寛文5年(1665年)に無嗣断絶となった。
一色氏の一族
[編集]創成期
[編集]氏名 | 呼び名 | 官職呼び名 | 幕府職1 | 幕府職2 | 幕府職3 | 幕府職4 | 幕府職5 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
一色公深 | 足利七郎 一色太郎 |
三河国 吉良荘地頭 | |||||
一色頼行 | 一色太郎 | 政所 関東廂結番四番人 | |||||
一色範氏 | 一色二郎 | 宮内 | 九州探題 1336年 - ? | ||||
一色直氏 | 一色孫太郎 | 宮内 右京 |
九州探題 1347年 - ? |
肥後守護 1348年 - 1353年 |
肥前守護 1350年 - 1352年 |
筑前守護 1352年 - 1355年 |
日向守護 1353年 - ? |
一色範光 | 一色五郎 | 修理大夫 兵部 |
四職 京都所司 |
肥前守護 1353年 - ? |
若狭守護 1366年 - 1388年 |
三河守護 1376年 - 1388年 | |
一色詮範 | 左京大夫 兵部 |
四職 侍所頭人 |
若狭守護 1388年 - 1406年 |
三河守護 1388年 - 1406年 |
尾張知多分郡守護 1391年 |
丹後一色家
[編集]氏名 | 呼び名 | 官職呼び名 | 幕府職1 | 幕府職2 | 幕府職3 | 幕府職4 | 幕府職5 | 幕府職6 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
一色満範 | 修理大夫 兵部 |
四職 | 丹後守護 1392年 - 1409年 |
若狭守護 1406年 - 1409年 |
三河守護 1406年 - 1409年 |
尾張知多分郡守護 1392年 - 1409年 | ||
一色義貫 | 一色五郎 | 四職 | 丹後守護 1409年 - 1440年 |
若狭守護 1412年 - 1440年 |
三河守護 1415年 - 1440年 |
山城守護 1418年 - 1436年 |
尾張知多分郡守護 1409年-1440年 | |
一色義直 | 修理大夫 左京大夫 |
丹後守護 1451年 - 1467年 |
伊勢半国守護 1451年 - 1467年 |
三河渥美郡地頭職 1451年? - 1476年 |
丹後守護(再任) 1484年 - 1487年 |
伊勢半国守護(再任) 1484年 - 1491年 | ||
一色義遠 | 兵部少輔 式部少輔 |
尾張知多分郡守護 1451年 - |
||||||
一色義春 | 一色五郎 | 左京大夫 | 丹後守護 1474年 - 1484年 |
伊勢半国守護 1477年 - 1484年 | ||||
一色義秀 | 一色五郎 | 丹後守護 1487年 - 1498年 |
伊勢半国守護 ? - 1498年 | |||||
一色義有 | 左京大夫 | 丹後守護 1498年 - ? | ||||||
一色義清 | 一色五郎 | 左京大夫 | 丹後守護 1509年 - 1519年 |
以下の人物は軍記物語の『一色軍記』にしか登場せず、一次史料では確認できないため架空の人物である可能性がある[11]。
氏名 | 呼び名 | 官職呼び名 | 幕府職1 | 幕府職2 | 幕府職3 | 幕府職4 | 幕府職5 | 幕府職6 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
一色義幸 | 丹後守護 ? - 1558年 | |||||||
一色義道 | 丹後守護 1558年 - 1579年 | |||||||
一色義定 | 一色五郎 | 左京権大夫 | 丹後守護 1579年 - 1582年 | |||||
一色義清 | 越前守 | 丹後守護 1582年 |
兵部一色家
[編集]氏名 | 呼び名 | 官職呼び名 | 幕府職1 | 幕府職2 | 幕府職3 | 幕府職4 |
---|---|---|---|---|---|---|
一色持信 | 兵部少輔 左京大夫 |
小侍所別当 三河国高橋荘地頭 | ||||
一色教親 | 一色五郎 | 左京大夫 | 四職 | 丹後守護 1440年-1451年 |
伊勢半国守護 1440年-1451年 |
山城守護 1447年-1449年 |
一色右馬頭家
[編集]一色持範は嫡流であったが、丹後・若狭の守護を義範に譲り、三河・伊勢に退いた。
- 一色持範-右馬頭 式部少輔
- 一色成範-右馬頭 早世したため尚範成長まで養子が家督す
- 一色尚範-右馬頭 室町幕府の外様衆に列せられ代々世襲す
- 一色尹範-右馬頭
- 一色晴範-右馬頭
- 一色輝範-右馬頭
- 一色秋範-右馬頭 輝範の實弟
式部一色家
[編集]右馬頭家の別家。家紋は初め「二つ引両」、足利義政の代より「桐のとう」。なお、設楽薫は一色政照のところに犬懸上杉氏の上杉教朝の子・一色(七郎)政熈を充て、政具以降は政熈の子孫としている[1]。
氏名 | 呼び名 | 官職呼び名 |
---|---|---|
一色持範 | 一色二郎 | 式部少輔 |
一色政照 | 一色七郎 | 式部少輔 |
一色政具 | 一色七郎 | 式部少輔 |
一色晴具 | 一色七郎 | 式部少輔 |
一色藤長 | 式部少輔 |
(無嗣断絶)
式部一色家分家
[編集]宮内一色家
[編集]- 一色直氏 - 宮内少輔
- 一色氏兼(うじかね) - 宮内少輔
- 一色満直(みつなお) - 宮内少輔、足利義満より偏諱を賜う
- 一色持直(もちなお) - 宮内少輔、足利義持より偏諱を賜う
- 一色教貫(のりつら) - 宮内少輔、足利義教より偏諱を賜う
- 一色視冬(みふゆ) - 宮内少輔、足利義視より偏諱を賜う
- 一色材延(きのぶ) - 宮内少輔、足利義材より偏諱を賜う
- 一色昭辰(あきたつ) - 宮内少輔、足利義昭より偏諱を賜う
- 実父は一色義幸
幸手一色家(宮内一色家分家、関東一色氏)
[編集]江戸時代は旗本として存続した。東京都千代田区の神田錦町の「錦(にしき)」の名は、ここに旗本の一色(いっしき)氏(幸手一色家)(三河国一色荘を本貫の地とする)の本家と分家の屋敷が2軒あり、「二色町」と表されていたからという説がある。
- 1319年(元応元年) - 一色氏が三河国幡豆郡一色より下総国田宮荘に入部する。
- 1399年(応永6年) - 一色直兼が田宮荘に入部する。
- 1554年(天文23年) - 10月、北条氏康が古河公方足利晴氏を攻め、北条軍により田宮城および天神島砦が落城する。
- 1555年(天文24年) - 一色直勝が北条氏康より田宮荘の本領に安堵される。以降北条氏に隷属する。
- 1590年(天正18年) - 一色直朝と子の義直が田宮城を退去し、下総国大淵寺に隠居する。義直の弟であり取手市小文間城主であった政義は川崎(上川崎)に隠棲し渡辺と改姓し土着する。小田原征伐が始まると、北条氏を離れ豊臣秀吉方に臣従する。
- 1591年(天正19年) - 12月、関東に入国した徳川家康は一色義直を御家人とし、武州幸手5160石を賜った。義直は現在の幸手市中1-6-13に陣屋(幸手陣屋、一色氏陣屋。現在は一色陣屋稲荷)を構えた。
- 1592年(文禄元年) - 1月23日、徳川家康が葛飾郡幸手の不動院と浦和・中尾の玉林坊に年中行事職を安緒した。以降、江戸幕府の大身旗本となった。
- 1600年以前 - 一色義直、隠居し、嫡子の照直が家督と領地を相続した。
- 1601年(慶長6年) - 一色照直は下総国相馬郡木野崎(千葉県野田市木野崎)を領することとなり、一色氏は幸手を離れた。同地(千葉県野田市木野崎字下町)に木野崎陣屋を構えした。
- 1607年(慶長12年) - 照直が死亡。嗣子が無かったため、幕命により先代の義直が再度当主となり領地相続した。のち、義直の娘婿であった杉浦直為の子供の直氏を養嗣子とした。
- 1639年(寛永16年)12月10日 - 直氏が将軍徳川家光に御目見えし、領地を相続した。ただし直氏は若年のため、実父で旗本の杉浦直為が「一色」に改姓して領地の運営を行った。照直が増やした分と義直の隠居領は没収されていた。
- 1616年(元和2年) - 3月1日、一色政義(渡部政義。義直弟。)が埼玉県久喜市鷲宮町上川崎の渡辺家にて没した。以降名主家として存続。
- 1698年(元禄2年) - 一色直興が知行替えで三河国設楽郡鳳来町(現・愛知県新城市長篠)を領した。この頃4500石。陣屋は旧・長篠城の二の丸に構え、代官屋敷があった。三河国は遠く遡れば、一色氏が守護を勤めていた国である。
- 1803年、豊川(現・愛知県豊川市御津町赤根字屋敷)に赤根陣屋を構えた。
系譜
[編集]- 一色直兼 一色氏兼の三男ではあるが嫡男[16]。宮内大輔、八郎。幸手田宮城主。鎌倉公方家奉公衆。鎌倉住。逗子葉山を領し、鎌倉に屋敷を構え出仕した。娘婿に関東管領上杉憲実。永享の乱にて足利持氏を支持した。戦後、君主足利持氏の自決の報を受け、養子一色直明、孫の一色亀乙丸らと共に、武蔵国金沢の称名寺にて自害。
- 一色蔵主 右衛門佐、従五位下。一色直明の庶長子。母は三浦氏。庶子であったため仏門に入り、三浦蔵主と号していた。しかし、上記の混乱により一色家がおよそ滅びてしまい、また直明三男の直清(後述)は京に在ったため、一色氏血縁でもあった第五代鎌倉公方足利成氏の命にて、鎌倉建長寺の僧から還俗して成氏に仕えた。鎌倉~古河公方家奉行衆(文官)。
-
-
-
- 一色崇貞 刑部少輔。左京。一色義久の次男・嫡子。喜連川足利家3代喜連川尊信の筆頭家老。金地院(一色)崇伝からの偏諱。1605年頃、古河より喜連川に入領。のち喜連川騒動で罪を得て伊豆大島へ流罪。同地で病死。妾腹の長男は摂津国尼崎藩主青山幸利御預かり、嫡子の次男と三男および家族達は和泉国岸和田藩主岡部宣勝御預かり処分となった。[17]
- 一色崇利 五郎左衛門のち丹右衛門。一色義久の三男。金地院(一色)崇伝からの偏諱。1605年頃、古河より喜連川に入領。のち喜連川騒動で兄の崇貞に連座し、義久夫婦と崇利は隣藩烏山にて蟄居処分。二年後、喜連川家の安定のために親子は呼び戻され、幼い喜連川足利家4代喜連川昭氏[18]の御側衆となったが、崇利は「根岸」と改姓し、代々の根岸丹右衛門家は町人として領内にて宿屋を営んだ。
-
-
以降、旗本幸手一色家
[編集]- 一色照直 幸手領 5160石を相続後に、江州蒲郡領内2000石を拝領。都合7160石の旗本となる。嫡子無で早死。父一色義直が再相続し、のち外孫の直氏を養子とした。
- 一色直氏 一色義直の養子。外孫。実父は杉浦直為。直為は一色に改姓し一色家を采配し、直氏を養育した。旗本杉浦家は改易。室は旗本植村泰勝の娘。
- 一色直房 4500石。1684年5月30日死去。室は紀州藩付家老水野重良の娘。後室は旗本佐々木高和[20]の娘。
- 一色直興 三河に転封。1723年11月23日死去。室は旗本近藤重信の娘。
- 一色直賢 娘婿。旗本丹羽長守[21]の子。浦賀奉行。1752年4月9日死去。
- 一色直国 1768年5月10日死去。室は旗本酒井忠貫(酒井忠吉の末)の娘。
- 一色直郷 1776年11月24日死去。室は旗本高木正信の娘。
- 一色敬直 八五郎、右京、数馬。室は交代寄合久松松平氏の松平康真の娘。後室に丹後国峰山藩主京極高備娘。[22]
- 一色直清
- 一色直休 3500石。丹後守。清三郎、主水、数馬、豊後守。西丸目付、甲府勤番支配、小普請奉行、長崎奉行(1850年8月15日~翌1月1日)、勘定奉行(1851年1月1日-1852年)、田安徳川家家老を歴任した。
- 一色直記 丹後守。明治11年没。
- 一色健郎 分家より婿養子として本家を相続。直記の長女であった重の死去後、次女の錠と再婚。
- 一色宣 一色北馬。
その他
[編集]美濃一色家
[編集]斎藤道三の子であった義龍が将軍足利義輝より認可を受けて、「一色」の姓を称したことに始まる家系である[注釈 2]。義龍の母であった深芳野は、母方の祖父が一色義遠、あるいは実の父が一色義清とされ、一色氏の血を引く人物である。また、一説によれば、義龍は母の深芳野が道三に嫁ぐ前、美濃守護土岐頼芸の愛妾であった時に身籠った子(義龍は頼芸の落胤である)とされる[注釈 3]。頼芸は一色義遠の実子であった土岐成頼の孫にあたるため、この落胤説が正しい場合[注釈 4]、義龍は女系を介さない形でも一色氏の血を引いていることになる。また別の説として、かねてから土岐氏は「諸家の筆頭」(『家中竹馬記』・『土岐家聞書』)、すなわち足利氏一門に属しない諸大名の中では筆頭の家柄である、という自負を持っていることが広く知られていたため、斎藤氏は足利氏の一門に属する一色氏を称することで、一色氏よりも格下に位置付けられる土岐氏の権威を上回り、否定しようとしたとする説もある[24]。
実質的には、戦国大名の斎藤氏と同一の家柄であり、義龍・龍興父子は美濃斎藤氏の代数にも数えられている。龍興については美濃追放後に同盟関係にあった本願寺顕如より「一色治部大輔」と称した龍興に宛てた書状(元亀2年8月23日付「顕如御書留」『大系真宗史料文書記録編4』43号)の存在が確認されるなど、龍興を指して「一色(氏)」と称した書状などの史料が複数現存しており、龍興を「斎藤氏」と称するのは織田信長ら敵対する陣営による呼称である[25]。
なお『信長公記』に拠れば、道三は義龍の同母弟または異母弟の斎藤喜平次にも、「一色右兵衛大輔」と名乗らせていた。
系図
[編集]数字は四職継承順位 太字は嫡流で中央縦一列が継承順、他は親子関係 斜線は養子縁組 点線は子孫
清和天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(省略) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
源義家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
源義国 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
足利義康 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(2代隔) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
足利泰氏 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
斯波家氏 (斯波氏) | 渋川義顕 (渋川氏) | 足利頼氏 (足利氏) | 覚玄[注釈 5] | 相義[注釈 6] | 石塔頼茂 (石塔氏) | 一色公深 (三河地頭) | 上野義有 (上野氏) | 覚海[注釈 5] | 小俣賢宝 (小俣氏) | 賢弁[注釈 7] | 加古基氏 (加古氏) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
頼行 | 範氏 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
行義 | [宮内一色家] 直氏 | 範光1 | 範房 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏兼 | 詮範2 | 詮光 | 詮光 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏宗 | 氏茂 | 満直 | [幸手一色家] 長兼 | 直兼 | 直信 | 満範3 | 範貞 (土屋氏) | 満貞 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏明 (丹羽氏) | 直勝 | 直俊 | 直明(直兼)[注釈 8] | 時家 | [丹後一色家] 義貫(義範)4 | [式部一色家] 持範s1 | 持信 | 満氏 | 久松詮定[注釈 9] (久松氏) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
直清 | 義直6 | 義遠 | 持長 | 政照s2 | 教親5 | 満重 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
直頼 | 義春 | 義秀 | 義有7[注釈 10] (義季) | 義晴 | 政具s3 | 義幸 | 貞範 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
直朝 | 義幸8[注釈 11] | 義道 | 晴具s4 | 光貞 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
[旗本幸手一色家] 義直 | 氏頼 | 義道9[注釈 12] | 義清 | 藤長s5 | 秀勝 | 氏勝 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
照直 | 直住 | 直氏[注釈 13] | 義定10[注釈 14] | [旗本式部一色家] 範勝s6 | 以心崇伝 | 範重 | [伊予一色家] 範直[26] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
昭一 | 内記 | 直房 | 直武 | 義清11 本家滅亡 | 範親 (範視)s7 | 範尚 | 範規 | 重成 | [今治一色家] 詮勝[27] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
直与(直輿) | 直旧(直舊) | 直政 | 直親[注釈 15] | 氏令 | 之晴 | 範武 | 重房 | 勝直 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
直賢[注釈 16] | 直範 | 直親 | 範供 (範風)[注釈 17]s8 | 片桐之晴 | 榊原範武 | 貞重 | 勝政 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
直國 | 牧村利瑞[注釈 18] | 直次 | 直慶 | 範長s9 無嗣断絶 | 重政 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
直郷 | 直美 | 小栗政行[注釈 19] | 政成 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
敬直 | 直方 | 義政 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
直清 | 恒三郎 | 政沅 | 遠山則義[注釈 20] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
政衍 | 中島直賢[注釈 21] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
政方 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
政富 | 政德 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
一色氏の庶流
[編集]- 丹羽氏 - 清和源氏流一色氏の庶流。尾張国丹羽庄に定着した。戦国大名織田氏に仕えた丹羽氏は、平姓であり系統が異なる。
- 土屋氏 - 清和源氏義家流[28]。一色範貞の子孫[28]。範貞—範次—藤直と続き、次の藤次のとき、秋山に改め、また、金丸と号した[28]。
- 久松氏 - 公家菅原氏の一族で久松定氏の後を一色満貞の子である一色詮貞が娘を娶って入嗣する。子孫は江戸幕府を開いた徳川氏と一部で異母関係にある。
主要家臣団
[編集]一色氏縁故社寺・菩提寺
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 一色氏の九州時代の守護としての領国については、佐藤進一の研究によって肥前と筑前に関しては確実視されているが、この他に山口隼正は肥後国と日向国を、上村喜代子は更に筑後国を加える説を唱えている。ただし、一色氏の命令文書が鎮西管領(九州探題)の権限に由来するのか、守護の権限に由来するのか不明な文書が多いため、実際に守護に任命されたと断定できず、また実際に守護に任じられていた期間もどの国も短期であったとみられている[2]。
- ^ 「斎藤」から改姓した理由は美濃守護の土岐氏以上の家格を獲得するためといわれている。後述。
- ^ 逆に言えば義龍は、斎藤氏の血を引いていない、ということになる。
- ^ 江戸時代に編纂された『美濃国諸家系譜』の記述であり、実際は創作ではないかとされている。
- ^ a b 伊豆国密厳院別当
- ^ 薬師寺別当
- ^ 山崎法印
- ^ 将軍の甥。足利義嗣の子。子の代から、のちの旗本一色家とのちの喜連川藩足利家の家老家に分かれる。
- ^ 詮貞とも。久松定氏の婿養子。
- ^ 従兄弟・一色義秀の死後、伯父義直の養子となって、後を継ぐ。
- ^ 一色教親の子、義有の養子。
- ^ 一色義有の子。
- ^ 義直娘と旗本杉浦直為の子。杉浦直為も義直の養子となり一色姓に改め、家宰を執った。
- ^ 一色義幸の子。
- ^ 一色氏令の養子。
- ^ 丹羽長守の子。
- ^ 片桐貞隆の子。
- ^ 牧村直昌の養子。
- ^ 小栗政甫の養子。
- ^ 遠山則信の養子。
- ^ 中島正利の養子。
出典
[編集]- ^ a b 設楽薫「足利将軍が一門の「名字」を与えること-将軍側近職制の展開との関連において」初出:『姓氏と家紋』56号、1989年/所収:木下昌規 編『シリーズ・室町幕府の研究 第5巻 足利義政』(戒光祥出版、2024年)ISBN 978-4-86403-505-7)。2024年、P240-249.
- ^ 河村 2016, p. 53.
- ^ 河村 2016, p. 509-510.
- ^ 河村 2016, p. 353・435・457-459.
- ^ 河村 2016, p. 24.
- ^ 河村 2016, p. 344-347.
- ^ 河村 2016, p. 344-352・513-514.
- ^ 河村 2016, p. 363-364・533.
- ^ 佐藤博信「室町時代の相模守護」『中世東国の支配構造』思文閣出版、1989年。ISBN 4784205543。
- ^ 風間洋「足利持氏専制の周辺」『国史学』第163号、1997年。/所収:植田真平 編『足利持氏』戒光祥出版〈中世関東武士の研究 第二〇巻〉、2016年。ISBN 978-4-86403-198-1。
- ^ 清水敏之「戦国期丹後一色氏の基礎的研究」(『戦国史研究』82号、2021年)p1-16
- ^ 持氏の母は一色直明の娘とされており、持氏は一色氏の一族である。
- ^ 一色義貫は永享12年(1440年)5月に将軍足利義教により誅殺されるが、これは持氏方残党の時家を匿ったためであるとされる。
- ^ 正守護は細川成之であったが、成之は一色義貫が謀殺された際の実行犯細川持常の後継であった。
- ^ のち波多野もまた、敗死する。
- ^ 当初は長兄の宮内少輔満直が嫡男であったと推測される。
- ^ 三子はのちに赦免され、三河国岡崎藩主水野忠善に客分として仕え「三河一色氏」を再興したが、それぞれ嗣子なく断絶したとされる。
- ^ 生母の欣浄院は一色氏で、一色崇貞の養女。
- ^ 足利成氏は、直明の使用していた旗を直清に渡した、とする話が伝わる。
- ^ 近江六角氏の当主六角義定の子。
- ^ この丹羽氏は一色氏系の丹羽氏ではない。
- ^ 京極高備の子に一色直貞(養父は一色直光(直範の子))がいる。
- ^ 阿久比町草木字上竹林にあった同名の草木城とは別。
- ^ 谷口雄太「足利一門再考 -[足利的秩序]とその崩壊-」『中世足利氏の血統と権威』(吉川弘文社、2019年) ISBN 978-4-642-02958-2 P182-183・200.
- ^ 木下聡「元亀年間の斎藤龍興の動向」『戦国史研究』76号、2016年。
- ^ 将軍足利義輝家臣、のち伊予に招かれ河野通宣、小早川隆景に仕えた。尾張国知多の所領は長子の詮勝が継ぎ、三男の一色教重以降、伊予国に土着。子孫は松平定行に登用され、伊予松山藩士。
- ^ 子孫は伊予今治藩士
- ^ a b c 寛政譜 1922, p. 495.
参考文献
[編集]- 『愛知県の地名』平凡社〈日本歴史地名大系 23〉、1981年。ISBN 4-582-49023-9。
- 豊橋市史編集委員会 編『豊橋市史 第1巻 - 原始・古代・中世編』1973年。
- 今谷明; 藤枝文忠 編『室町幕府守護職家事典』 上、新人物往来社、1988年。ISBN 4-404-01501-1。
- 河村昭一『南北朝・室町期一色氏の権力構造』戎光祥出版、2016年。ISBN 978-4-86403-203-2。
- 堀田正敦「国立国会図書館デジタルコレクション 一色氏」『寛政重脩諸家譜. 第1輯』國民圖書、1922年 。
- 太田亮「国立国会図書館デジタルコレクション 一色氏」『姓氏家系大辞典. 第1巻』国民社、1942年 。
- 「巻第八十七 清和源氏 義家流 足利支流 土屋」『寛政重脩諸家譜』 第一輯、國民圖書、1922年12月18日 。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 足利一族 - ウェイバックマシン(2019年3月30日アーカイブ分)
- 藤原北家勧修寺流町氏 - ウェイバックマシン(2019年1月1日アーカイブ分)
- 足利氏 - ウェイバックマシン(2019年1月1日アーカイブ分)
- 吉良氏
- 公家菅原氏
- 「丹後一色氏の家臣団」梅本正幸、一色正人
- わたしのファミリーヒストリー(一色晃造氏。旗本幸手一色家子孫)