一色義有
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 長享元年(1487年) |
死没 | 永正9年7月9日(1512年8月30日)[1] |
別名 | 義季 |
戒名 | 季岳[2] |
官位 | 左京大夫 |
幕府 | 室町幕府丹後守護 |
主君 | 足利義稙 |
氏族 | 一色氏(丹後一色家) |
父母 | 実父:不明(義直の近親者、あるいは義秀の子か[3])、養父:一色義秀 |
兄弟 | 妹:細川高国室 |
子 | 幸能法師?[2]、山名祐豊正室、養子:一色義清[3] |
一色 義有(いっしき よしあり)は、戦国時代の武将、守護大名。
生涯
[編集]義有は丹後の一色氏が一色義秀の自害をもって絶えたため、その跡を継いで一色氏の当主となった[3][注釈 1]。しかし国内は守護代延永春信・石川直経をはじめとする国人による内乱が相次ぎ、混乱を極めた。
永正2年(1505年)に丹後守護に補任されたが、翌永正3年(1506年)に幕府の管領である細川政元により解任、政元の命を受けて丹後に侵攻した細川澄之、細川澄元、細川政賢、赤沢朝経、三好之長、香西元長及び武田元信らと合戦を繰り広げた。義有は今熊野城に、延永春信は阿弥陀ヶ峰城に、石川直経は加悦城にそれぞれ籠り防戦する。翌永正4年(1507年)に戦いは継続され、府中(現在の宮津市)が戦火に遭うなどの被害があったが、丹後方は包囲に持ちこたえていた。
その最中に政元が4月に京都へ戻り、澄之と香西元長も5月に直経と和睦して京都へ引き上げ、6月に政元を暗殺する(永正の錯乱)事件が発生する。細川軍は義有と和睦を結び撤退を図ったが、直経がその隙を突いてこれを撃退、赤沢朝経らを討ち取り武田軍を打ち破った(追撃は直経の独断専行とされる)。永正5年(1508年)に義有は丹後守護に再任、永正7年(1510年)に将軍足利義尹(後の義稙)に太刀・馬を送り、永正8年(1511年)には上洛して義尹に軍忠に励んだが、永正9年(1512年)に病死、享年26。
未亡人となった義有の妻は萬福寺再建に尽力、義有ゆかりの品々が寄進されたといわれる[注釈 2]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『戦国大名系譜人名事典』と『戦国人名事典』が義秀の従兄弟と記しているのに対し、『室町幕府守護職家事典』と『宮津市史』は義秀と義有の系譜関係は不明としている。山本、P265、阿部、P104、今谷、P148、宮津市、P685。
- ^ 『戦国大名系譜人名事典』と『戦国人名事典』では義有は永正9年以後も存命だったともされ、永正11年(1514年)8月に山名氏が侵入、同年に再度侵入した武田元信と宮津で戦ったとされ、没年は不詳とされるが、『宮津市史』は永正9年に26歳で死去したとしている。山本、P265、阿部、P104、今谷、P148、宮津市、P685 - P687、福島、P62 - P65。
出典
[編集]- ^ 宮津市、P687。『戦国大名系譜人名事典』と『戦国人名事典』では生没年は不詳とされている。山本、P265、阿部、P104。
- ^ a b 梅本政幸『丹後守護一色氏代々控[1]』
- ^ a b c 清水敏之「戦国期丹後一色氏の基礎的研究」戦国史研究会 編『戦国史研究』(82)p1-16(戦国史研究会、2021年)
参考文献
[編集]- 山本大・小和田哲男編『戦国大名系譜人名事典 西国編』新人物往来社、1986年。
- 阿部猛・西村圭子編『戦国人名事典』新人物往来社、1987年。
- 今谷明・藤枝文忠編『室町幕府守護職家事典〔上〕』新人物往来社、1988年。
- 宮津市編『宮津市史 通史編 上巻』宮津市、2002年。
- 福島克彦『戦争の日本史11 畿内・近国の戦国合戦』吉川弘文館、2009年。