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一色義秀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
一色義秀
時代 室町時代 - 戦国時代
生誕 文明2年(1470年)頃[1]
死没 明応7年5月29日1498年6月18日
改名 周儀侍者→義秀
別名 通称:五郎
戒名 西禅寺殿
幕府 室町幕府丹後守護伊勢半国守護
主君 足利義尚
氏族 一色氏(丹後一色家)
父母 父:一色義直
兄弟 義春義秀
養子:義有(実子説あり[1]
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一色 義秀(いっしき よしひで)は、室町時代後期から戦国時代前期にかけての守護大名

生涯

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一色義直の次男として誕生。初め僧籍にあったらしく「周儀侍者」と呼ばれていたが(大徳寺の『蔭凉軒日録』)、文明16年(1484年)の兄・義春の急死により急遽一色氏の家督を継ぐ。若年であったせいか、この時は丹後国守護には父義直が就いている。

文明18年(1486年)8月、父は禁裏の意向により知行地の若狭国小浜を取り上げられ、同地は同国守護武田国信に与えられた。激怒した父は直ちに丹後へ下向、翌長享元年(1487年)の9代将軍足利義尚六角高頼討伐にも参陣しなかった。この時代理として9月25日に上洛・参陣したのが義秀で、上洛を機に「義秀」と名乗ったらしい。同年、丹後守護となる。また、時期は不明だが伊勢半国守護にも補任されている[2]

明応元年(1492年)から同2年(1493年)にかけて、在京していた義秀と子の五郎(五郎は文明15年(1483年)前後に生まれていたため、実際は後述の伊賀次郎左衛門)は対立し、父・義秀は丹後国へと下向している[1]。明応2年(1493年)、丹後で伊賀次郎左衛門が一色五郎を奉じて叛乱を起こした。その後も丹後では国衆の叛乱が相次ぎ、遂に一色五郎は延永氏によって殺害され、明応7年(1498年)5月29日、義秀は丹後国普甲山(現在の宮津市普甲峠)で国衆に攻められ自害して果てた[1][3]。跡を継いだ義有は、義直の近親者、あるいは義秀の実子とされる[1]

脚注

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  1. ^ a b c d e 清水敏之「戦国期丹後一色氏の基礎的研究」戦国史研究会 編『戦国史研究』(82)p1-16(戦国史研究会、2021年)
  2. ^ 今谷明; 藤枝文忠 編『室町幕府守護職家事典』 上、新人物往来社、1988年、162-163頁。 
  3. ^ 宮津市 編『宮津市史 通史編』 上、2002年、676-681頁。