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柳本藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

柳本藩(やなぎもとはん)は、大和国式上郡山辺郡宇陀郡を領有した。藩庁は柳本陣屋(現在の奈良県天理市柳本町黒塚古墳)。なお、藩庁は陣屋であるが、家格城主格大名であった。

藩史

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織田信長の弟で、茶人として有名な織田有楽(長益)は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで東軍に与して戦功を挙げたことから、大和国と河内国の内に3万石の所領を与えられた。その後は徳川家康に仕えず、豊臣秀頼の大叔父ということで秀頼の家臣となっていた。大坂冬の陣では豊臣方として戦ったが、その裏で徳川方に内通したり、冬の陣における和睦交渉で裏工作を行った。そして夏の陣直前に豊臣方から離れたため、戦後に罪には問われなかった。しかし有楽は藩領3万石のうち、1万石を自分の隠居料(味舌藩)とし、残りの2万石うち、1万石を四男の長政に、同じく1万石を五男の尚長にそれぞれ分与した。このため、長政の系統は大和国芝村藩として、尚長の系統は柳本藩として存続することとなる。

尚長の後、柳本藩は織田長種織田秀一と続いたが、第4代藩主・織田秀親の代である宝永6年(1709年)2月、前将軍・徳川綱吉の法会が寛永寺で行われているとき、発狂した前田利昌によって秀親が殺害された。このため柳本藩は改易の危機を迎えたが、家老たちが機転を利かせて秀親は病死ということにして、弟の成純を養嗣子として跡を継がせ、改易の危機を脱した。

江戸時代中期頃になると、小藩の悲しさから藩財政の窮乏化が表面化する。このため領民に重税を敷いたが、第10代藩主・織田秀綿の代である明和6年(1769年)1月には百姓が重税に反対して強訴を起こすに至った。享和2年(1802年)12月にも百姓による年貢軽減を求める一揆が発生し、織田軍と百姓との間で乱闘による死傷者が多数出ている。さらに江戸時代後期に入ると、ただでさえ藩財政が厳しい中で文政13年(1830年)には火事により柳本屋敷が全焼する。このため第11代藩主・織田信陽天保4年(1833年)10月に藩士27人のリストラを行った。そして嘉永5年(1852年)12月27日には信長以来の名族ということもあって、城主格に任じられた。幕末期では天誅組の反乱鎮圧や天皇陵の修築工事を行うなど、早くから官軍に近付いていた。明治維新後は版籍奉還により知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県により柳本藩は廃藩となり、柳本県を経て奈良県に編入されたのである。

なお、織田氏の諸藩では他に、織田信雄の系統で天童藩柏原藩が、有楽の系統で上述の芝村藩(戒重藩)が、明治維新まで存続した。有楽の系統は他に野村藩が存在したが、江戸時代初期に除封、無嗣断絶している。

歴代藩主

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織田家

外様、1万石

  1. 織田尚長(なおなが)【元和元年(1615年)8月12日藩主就任-寛永14年(1637年)11月3日死去】
  2. 織田長種(ながたね)【寛永15年(1638年)3月7日藩主就任-寛永20年(1643年)9月8日死去】
  3. 織田秀一(ひでかず)【寛永20年12月7日藩主就任-貞享4年(1687年)8月3日死去】
  4. 織田秀親(ひでちか)【貞享4年9月27日藩主就任-宝永6年(1709年)2月6日殺害】
  5. 織田成純(しげずみ、しげとし)【宝永6年4月12日藩主就任-享保9年12月3日隠居】
  6. 織田秀行(ひでゆき)【享保9年12月3日藩主就任-享保11年(1726年)6月18日死去】
  7. 織田信方(のぶかた)【享保11年8月16日藩主就任-寛保元年(1741年)8月13日死去】
  8. 織田秀賢(ひでかた)【寛保元年10月12日藩主就任-宝暦13年(1763年)8月26日隠居】
  9. 織田長恒(ながつね)【宝暦13年8月26日藩主就任-明和3年(1766年)8月22日死去】
  10. 織田秀綿(ひでつら)【明和3年10月16日藩主就任-文化3年(1806年)9月20日死去】
  11. 織田信陽(のぶあきら)【文化3年12月18日藩主就任-安政4年(1857年)8月25日死去】
  12. 織田信成(のぶしげ)【安政4年12月16日藩主就任-明治元年(1868年)5月6日隠居】
  13. 織田信及(のぶひろ)【明治元年5月6日藩主就任-明治4年(1871年)7月14日免官】

幕末の領地

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先代
大和国
行政区の変遷
1615年 - 1871年 (柳本藩→柳本県)
次代
奈良県(第1次)