苗木藩
苗木藩(なえぎはん)は、現在の岐阜県中津川市苗木に存在した、江戸幕府の譜代大名。最小の城持ちの藩。居城は苗木城。美濃国の恵那郡の一部と加茂郡の東部を領地としていた[1]。
概要
[編集]苗木藩成立に至る過程
[編集]苗木藩の藩祖は遠山友政である。
友政は元は飯羽間遠山氏の出身であったが、遠山直廉の死去により苗木遠山氏は後継が絶えたため、織田信長の命により祖父の友勝が後を継いだ。
友勝が亡くなると飯羽間城主であった父の遠山友忠が苗木遠山氏を継いだ。
天正11年(1583年)、友忠は東美濃の覇権を巡って森長可と争い、その降誘を蹴って戦って敗れ苗木城を奪われた。友忠と友政は家臣を連れて徳川家康を頼って落ち延び、三河田峰城主の菅沼定利の配下に属したが、友忠は数年後に没した。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉が小田原征伐で後北条氏を倒した後、徳川氏が関東へ転封となると、友政は榊原康政(あるいは井伊直政)に属して、その領地である上野国の館林に移った。この時に苗木遠山氏の遠山弥右衛門景利が榊原康政の家臣となり500石を得て、館林・長岡遠山氏の祖となった。
慶長5年(1600年)2月、森忠政の転封に伴い河尻秀長が苗木城主となったが、同年の関ヶ原の戦いで河尻秀長は西軍に与したため戦後に所領を没収され、東軍に与して東濃の戦いで武功を挙げ、苗木城を奪還した友政に1万500石が与えられて苗木藩が立藩した。
苗木藩成立後の過程
[編集]徳川幕府は裏木曽と呼ばれる付知村、川上村、加子母村の三か村は良材の産地であるため、苗木遠山氏から取り上げて直轄地にして苗木藩に預けていたが、元和元年(1615年)尾張藩領に移管した。尾張藩は三ヶ村代官を置いて支配した。
友政はその後大坂冬の陣では桑名城の守備、大坂夏の陣では松平忠明に属して武功を挙げ、元和5年(1619年)12月19日、苗木で死去した。
藩政においては小藩ゆえの、幕府の相次ぐ手伝い普請や軍役などにより、財政窮乏が早くから始まる。歴代藩主は藩政維持のため厳しい倹約令を出し、天保年間には給米全額の借り上げを行うなどした。
第3代藩主・遠山友貞は新田開発を行なって4286石の新田を開発したが、第5代藩主・遠山友由の大坂加番、第6代藩主・遠山友将の駿府加番による出費が重荷となった。
享保7年(1722年)6月15日、遠山友由の遺言により、弟の遠山友央は美濃国加茂郡において500石を分知されて、旗本となり寄合に所属した。
享保17年(1732年)閏5月25日、第6代藩主で甥の遠山友将の死去により、旗本となっていた叔父の友央が末期養子として家督を相続した。友央の藩主相続にあたり、分知されていた500石を幕府に返上した結果、表高が1万21石となった。
しかし500石を幕府に返上したことは苗木藩にとって大きな痛手で、幕府への対応が拙かったとのことで江戸家老の大脇権右衛門は失脚した。
500石は飛騨に近い加茂郡佐見村の4村(大野・小野・寺前・吉田)を幕府に渡し、高山陣屋の飛騨郡代の支配下となった。
しかし13年後の延享2年(1745年)高山陣屋の飛騨郡代が長谷川忠崇(忠嵩)から幸田高成(善太夫)に替わると、佐見村210石は本田であるが、290石は新田なので上知できないので別の村から本田を290石差し出すように求められた。
そのため下野村369石のうち、290石を幕府(高山陣屋の飛騨郡代)に渡すこととし、残り79石は苗木藩に残した。そのことにより、佐見村の新田分の290石は苗木藩に戻った。
幕末から廃藩置県に至る過程
[編集]最後の藩主・第12代の遠山友禄は文久元年(1861年)と元治元年(1865年)の2度にわたって若年寄となり、慶応元年(1865年)に大坂警備や第二次長州征伐に参加したことなどの出費が重なって財政は火の車となり、従来の倹約令に加えて5種類の藩札発行による改革を図ったが、遂に財政は破綻した。
明治維新後、14万3千両、藩札1万5900両あった藩の借金は、苗木城破却に伴う建材や武具などの売却、藩士卒全員を帰農、家禄奉還させ家禄支給を削減し、さらには帰農法に基づいて旧士族に政府から支給される扶持米を大参事以下40名が3年間返上させること、知藩事遠山友禄の家禄の全額を窮民救済と藩の経費とすることにより、明治4年(1871年)8月には5万2600両、藩札5千両にまでに縮小した。しかし旧苗木藩士の生活は年々逼迫し、自殺者まで出る事態となった。
廃仏毀釈
[編集]維新直後、平田派国学の影響を受けた藩政改革が図られ、青山景通、青山直通の親子らが先頭に立って、領内で徹底した廃仏毀釈が実行された(東白川村の蟠龍寺などの例がある)。
明治3年(1870年)8月7日、苗木藩庁は弁官(政府役人)に対して「神葬祭願」を進達し、即日付で「願之通」の指令を受けた。これが苗木藩の廃仏毀釈の端緒である。
同年9月3日、苗木藩大参事の青山直通は、領内全ての寺院から住職を呼び出して、「今回、王政復古ニツキ領内ノ寺院廃寺申付候、速ヤカニ御請スヘシ、就ヒテハ還俗スル者ニハ従来ノ寺有資産及寺等ヲ下サレ苗字帯刀ヲ許シ村内里正ノ上席タルヘシ」と申し渡した。
苗木藩主の菩提寺の雲林寺の住職であった剛宗宗戴は、塔頭の正岳院住職の柞田をはじめとする12ヶ寺の住職を集めて対策を協議した。
住職14人が協議した結果還俗することが決まったが、雲林寺の剛宗宗戴だけは還俗を拒んだ。
青山景通は剛宗宗戴に対し、5人扶持で教諭として雇用するとの条件で説得したが、これも拒み、黄金300両と苗木遠山氏歴代の位牌と仏具を貰い受けて、下野村の中でも幕府領であったがために苗木藩の廃仏毀釈が及ばなかった地域にあった法界寺の一室に移った。
同年9月27日、苗木藩庁は「支配地廃寺還俗申付候御届」を提出し、支配地一同が神葬改宗したので、管内の15か寺の廃寺と、その寺僧たちに還俗を申し付けたことを、弁官に進達した。
雲林寺を始めとする苗木領内の全ての寺院は取壊されて廃寺とされた。
この届け書によると、廃寺は15か寺となっているが、実際には苗木雲林寺の塔頭の正岳院と寿昌院、加茂郡大沢村の蟠龍寺も廃寺となっている。
廃藩置県後の明治4年11月22日(1872年1月2日)、苗木県(旧苗木藩)が岐阜県に吸収され消滅すると、廃仏毀釈は終了した。
藩領(版籍奉還時点)
[編集]- 美濃国恵那郡
- (中津川市)日比野村・上地村・瀬戸村・坂下村・上野村・田瀬村・福岡村・高山村・蛭川村・下野村の一部
- (恵那市)中野方村・毛呂窪村・姫栗村
- 美濃国加茂郡
- (恵那市)河合村・飯地村
- (八百津町)峯村・下立村・福地村
- (白川町)赤河村・切井村・犬地村・上田村・広野村・若松村・名倉村・宇都尾村・中屋村・須崎村・有本村・室原村・久田島村・成山村・徳田村・黒川村・油井村
- (東白川村)神土村・越原村・下野村・柏本村・久須見村・宮代村・大沢村
- (下呂市)田島村
代官
[編集]村方の直接支配を行ったのは「代官」であり、代官は藩機構のなかで郡奉行の指図を受けて、民政の直接の担当者であった。また寛文11年(1671年)の「分限帳」でも中小姓格の六人が代官に補任されている。これらの代官は、それぞれ管轄区域を担当し、管轄内の一般民政や、年貢の徴集にあたったもので、その分担区域は次のようであった(後藤時男著 『苗木藩政史』)。以下の六つに分かれている。これら領村支配の体制は、享保期まで続いたようである。
- 地回り村々支配……… 城下町・日比野村・上地村
- 北方村々支配………… 黒川村・中屋村・須崎村・柏本村・久須見村・宮代村・大沢村・下野村・神土村・越原村・有本村・名倉村・油井村・田嶋村・打尾村・広野村・若松村・久田嶋村・成山村
- 五ヶ坂下村々支配…… 上野村・下野村・田瀬村・福岡村・高山村・坂下三郷
- 中通村々支配………… 飯地村・中之方村・峯村・下立村・塩見村(飯地枝郷)・福地村・切井村・赤河村・犬地村・上田村
- 南方村々支配………… 蛭川村・姫栗村・毛呂窪村・河合村
- 瀬戸村支配…………… 瀬戸村
宝永7年(1710年)の「御巡見」記録では、支配管轄が五つに減っている。
- 地廻り村々
- 北方村々
- 五ヶ坂下村々
- 中通村々
- 南方村々
享保17年(1732年)苗木藩は下野村の内の500石を幕府に返上したため、下野村の一部が公儀御領(天領)となった。
延享2年(1745年)には、さらに以下の四区域となり、代官は四人となり、同時に支配村々の移動がみられる。五ヶ支配地内の下野村が天領となって消えていることから、四区分制はそのまま版籍奉還まで続いた。
- 地廻り支配…………… 城下町・日比野村・上地村・瀬戸村
- 五ヶ坂下蛭川村支配… 坂下三郷・上野村・田瀬村・福岡村・高山村・蛭川村
- 南方中通支配………… 中之方村・切井村・赤河村・犬地村・上田村・峯村・下立村・飯地村・河合村・姫栗村・毛呂窪村
- 北方支配……………… 黒川村・神土村・越原村・有本村・佐見新田・久田嶋村・成山村・油井村・名倉村・中屋村・柏本村
家臣団
[編集]士分は、上から給人、中小姓、徒士の家格に分かれ、それ以外に足軽、中間等があった。
苗木下屋敷
[編集]苗木城より北の中津川市並松に下屋敷があった。
江戸屋敷
[編集]- 上屋敷 (将監橋) 東京都港区芝
- 下屋敷 (麻布広尾)東京都港区南麻布
藩札
[編集]江戸幕府は享保15年(1730年)に各藩に対し年限を期して藩札の発行を許可した。苗木藩は元治年間に金札二両・一両・二分・一分・二朱等を発行した。
渡船
[編集]上地村の木曽川の渡船は、慶長年間に開始されたが当初は筏で往復していたが、元和年間に至り苗木藩は人船と馬船の二艘を給し、船人6人に扶持を与えた。
年貢米
[編集]黒瀬街道で細目村の黒瀬湊(加茂郡八百津町)まで陸路で運び、水運で伊勢国の桑名宿へ送った。
版籍奉還と廃藩置県
[編集]明治2年6月17日(1869年)7月25日に版籍奉還が勅許され、藩主は知藩事となった。
- 版籍奉還後の官禄
(大参事)石原定安・青山直通 玄米10石・月給25両、(権大参事)宮地貴巳・棚橋朝成 玄米10石・月給23両、(少参事)小池房煒 玄米10石・月給20両、(権少参事)水野忠鼎 玄米10石・月給18両、(会計主事)1名、(家令)1名、(郡市主事)1名、(勧農主事)1名、(公用人)2名、(大監察)1名、(小隊長)1名、(主弁事)2名、(郡市理事)2名、(会計理事)5名、(家令)1名、(家扶)2名、(監察)2名、(教授)欠員、(副公用人)欠員、(小副長)1名、(校監)1名、(医師)2名、
苗木県の廃県願
[編集]明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県により、苗木藩は苗木県となったが、同年11月20日、府県統合により岐阜県に編入されて消滅した。 県廃合の動きの中で全国にもさきがけて苗木から廃県運動が起っていることは注目すべきことである。
苗木県では廃藩置県の直後八月一七日、県政の最高責任者である大参事・青山直道と石原定安は、
「…当県ノ如キ区々一小地方猶官庁ヲ建置候テハ 官員俸給其他公廨諸入費ノミ莫大ニシテ万一モ国家ニ裨補ナク、臣等徒らニ素餐ノ罪ヲ増殖シ候儀ト恐悚至極奉存候 伏テ冀クハ速ニ臣等カ職ムヲ免セラレ 廃県被仰出候様仕度奉懇祈候 此段宜御報奏奉願候…」
と当県は小県で役所を置くことは役人の給料その他莫大な費用がかさみ、国家の利益とならない。従って大参事両名を免職し苗木県の廃県を吏官に願い出たものである。
また同日県役人も大参事の免官願を出したことにならって「私共於テモ速ニ解免被仰被下度 此段伏テ奉願候」と辞職願を大参事宛に提出したので両大参事連名で同日この旨を吏官へ届け出た。
幕末から廃藩置県に至る過程
[編集]さらに明治4年の廃藩置県により、苗木藩は苗木県を経て岐阜県に吸収され、当初約束されていた家禄奉還の補償は不可能となった。また明治政府からではなく苗木藩庁の指示により他藩よりいち早く家禄奉還して、全員が士族から平民へ移っていたため、旧藩士卒は旧士族として認められないという事態に陥った。このことなどにより、財政改革や後述する廃仏毀釈を主導した大参事青山直通に恨みが集中した。
廃藩置県後
[編集]明治9年(1876年)に旧藩士4名が青山直通の暗殺計画を決行、当人は当日不在だったため屋敷に放火される。明治24年(1891年)にも襲撃未遂事件が起こっている。
歴代藩主
[編集]- 遠山家
参考文献
[編集]- 『苗木藩政史研究』 後藤時男 中津川市 1968年(1982年再版)
- 『江戸300藩の意外な「その後」―「藩」から「県」へ 教科書が教えない歴史』 日本博学倶楽部 PHP文庫 2005年
- 『恵那郡史』 第七篇 江戶時代(近世「領主時代」)第二十八章 諸藩分治 其二 苗木藩距江戸 p231~p239 恵那郡教育会 1926年
- 『中津川市史 中巻Ⅰ』 第五編 近世(一)第一章 支配体制と村のしくみ 第四節 苗木遠山家の家臣団 p81~p121 中津川市 1988年
- 『福岡町史 通史編 下巻』(第五部 近世) 第一章 近世における苗木藩の概観 第一節 苗木藩成立と領村支配 四 代官の支配区域 福岡町 1992年
- 『蛭川村史』 第四節 近世 苗木遠山氏・苗木藩の行政 p207~p270 蛭川村史編纂委員会 1974年
- 『恵那市史 通史編 第2巻』第二章 諸領主の成立と系譜 第四節 苗木領 p132~p140 恵那市史編纂委員会 1989年
- 『新修東白川村誌 通史編』 第二章 近世(江戸時代) 第一節 苗木藩成立と領内支配 p135~p163 東白川村誌編纂委員会 1982年
- 『白川町誌』 第二編 白川町の歴史 第三章 近世 苗木藩代々 p135~p137 白川町誌編纂委員会 1968年
- 『八百津町史 史料編』 第七節 苗木藩の廃仏毀釈について 183p~243p
- 『苗木藩終末記』 東山道彦 三野新聞社 1981年
脚注
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]先代 (美濃国) |
行政区の変遷 1600年 - 1871年 (苗木藩→苗木県) |
次代 岐阜県 |