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飯羽間城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
飯羽間城跡

飯羽間城(いいばまじょう)は、美濃国恵那郡遠山荘岐阜県恵那市岩村町飯羽間)にあった鎌倉時代から戦国時代末期の日本の城

天正2年(1574年武田勝頼の部下に攻撃され落城した。(飯羽間城の戦い)。現在は城跡のみが残っている。

概要

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所在地

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岐阜県恵那市岩村町飯羽間字市場田

現地情報

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現在は城山の一部が崩れ、二つある登城口の一方が通行止めになっている。

一の曲輪跡に「飯羽間城諸将士十三界萬霊塔」と書かれた城兵の供養碑があり、崖下の低地部に「史蹟飯峡城址之碑」という城址碑がある。

飯羽間城の城跡付近から二十六間筋兜が発掘された。

これは縦長梯形鉄板を26枚張り合わせた実戦向きの兜で、南北朝時代の武将が使用したものであった。

このような立派な兜は、飯羽間城主が着用したものと推定できるという。この兜の出土によって、築城は鎌倉時代中期から末期と考えられている。

上飯羽間の上平街道の傍らには、姫塚という墳墓がある。天正2年(1574年)武田軍によって飯羽間城が攻め落とされた時、飯羽間城主遠山友信の娘がこの地に隠れていた。里人はこの美しい姫を憐れみ、かくまって保護したが、間もなく亡くなったため、ここに葬って姫塚と呼んだと伝わる。

信の城

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飯羽間城の北東600m(岐阜県恵那市岩村町飯羽間根ノ上)に、信の城があった。城主は、神篦城主の子の信友市之丞(延友信光の一族)と記されている。(丹羽聞書)

交通アクセス

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脚注

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関連項目

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