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鶴ヶ城 (美濃国)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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鶴ヶ城
岐阜県
別名 一日市場館、神戸(ごおど)館、神篦(こおの)城、高野(こおの)城、神野(こおの)城、国府之(こおの)城、土岐城
城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 土岐光衡
築城年 不明
主な城主 土岐氏神野遠山氏延友遠山氏
廃城年 1600年(慶長5年)
遺構 曲輪土塁堀切
指定文化財 岐阜県指定史跡[1]
位置 北緯35度23分24.2秒 東経137度16分03.2秒 / 北緯35.390056度 東経137.267556度 / 35.390056; 137.267556座標: 北緯35度23分24.2秒 東経137度16分03.2秒 / 北緯35.390056度 東経137.267556度 / 35.390056; 137.267556
地図
鶴ヶ城の位置(岐阜県内)
鶴ヶ城
鶴ヶ城
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鶴ヶ城(つるがじょう)は、岐阜県瑞浪市土岐町鶴城にあった日本の城

別名として一日市場館神戸(ごおど)館神篦(こおの)城高野(こおの)城神野(こおの)城国府(こおの)城土岐城。岐阜県指定史跡[1]

歴史

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鎌倉時代

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文治5年(1189年)、源国房の四代子孫の光衡は、源頼朝より美濃国守護に任じられ、鎌倉幕府に仕えて土岐光衡と名乗り、後に神戸館(一日市場館)を築城して移り土岐氏の祖となった。

光衡は、神戸館(一日市場館)を本拠として「土岐」を号したとされ[2]土岐氏発祥の地と云われている。

承久3年(1221年)の「承久の乱」では、光衡の子・土岐光行(土岐左衛門尉)は幕府方、土岐光時(土岐判官代)は上皇方についたと考えられる[3]。光行の孫・土岐頼貞の代でも一日市場館を本拠としており、

元亨4年9月(1324年)の「正中の変」の直前には、日野資朝が土岐館(一日市場館)に訪れた[4]

土岐氏から遠山氏の城へ

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建武の新政後の暦応2年(1339年)、土岐頼遠は、父の死により家督を継いで土岐氏惣領となり、美濃守護に就任した。同年に本拠地を鶴ヶ城から厚見郡に移動、守護所を長森城に定めた。

土岐氏が去った後は、恵那郡遠山氏の城の一つとなり、神野遠山氏が入ったが、戦国時代末期には延友信光(遠山佐渡守)が入り城主となった。

織田信長の来城

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天正2年(1575年)正月6日には織田信長明知城救援のため鶴ヶ城に入った[5]

十三河原の戦い

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慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの前哨戦である東濃の戦いにおいて、東軍の小里光親等の東軍が、西軍の城となっていた鶴ヶ城を攻めた際には、土岐川の「十三河原」が戦場となり、小里一族の和田太郎左衛門ら多くの者が戦死した。瑞浪市には、その供養のための五輪塔が残っている。

9月2日に遠山利景方景父子・小里光親はともに田丸勢が籠る明知城を攻めてこれを奪還し、9月3日に光明の子・光親小里城を奪還し、9月29日に鶴ヶ城を落とし、10月10日には岩村城を開城させた。

鶴ヶ城は戦後に廃城となった。

遺構

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城は山城で、遺構として曲輪土塁堀切が残されている。

歴代城主

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土岐氏とその一族

遠山氏とその一族

織田氏家臣

森氏家臣

参考文献

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  • 『瑞浪市史 歴史編』 第一章 鎌倉時代の郷土 第一節 美濃源氏土岐氏の発生 p240~p256 瑞浪市 1974年
  • 『ふるさとの歴史 : 郷土学習のための各町概史 (瑞浪市郷土史シリーズ ; その1)』 渡辺俊典 瑞浪市郷土史研究会 1983年
  • 『土岐市史 第1巻』(土岐市教育委員会、1970年)
  • 『岐阜市史 通史編』(岐阜市、1928年)
  • 『美濃・土岐一族』 谷口研語 (新人物往来社1997年ISBN 9784404024985)

土岐氏関連の城・館

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脚注

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  1. ^ a b 「鶴ケ城跡」岐阜県公式HP
  2. ^ 『瑞浪市史 歴史編』p.245、p.274
  3. ^ 『美濃・土岐一族』30-32頁
  4. ^ 『土岐市史 第1巻』p.166
  5. ^ 信長公記 7巻』