土岐光行

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土岐光行
時代 平安時代 - 鎌倉時代前期
生誕 不明
死没 建長元年9月19日1249年10月26日
別名 向山寺殿(法号)
墓所 岐阜県土岐市肥田町浅野町永松寺
官位 従五位下左衛門尉検非違使判官代出羽守
幕府 鎌倉幕府
主君 源実朝後鳥羽院
氏族 土岐氏
父母 父:土岐光衡
兄弟 光行光時
東胤頼
浅野国衝饗庭光俊光氏国慶光定
光員[1]光家頼命頼有親行
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土岐 光行(とき みつゆき)は、鎌倉時代前期の武将御家人土岐氏2代当主。

生涯[編集]

美濃源氏の嫡流・土岐光衡の長男として誕生。

父に続き土岐氏の惣領として鎌倉幕府の御家人に列したが在京し後鳥羽院西面武士をも務めるなど朝廷との繋がりも深かった。建保4年(1216年)左衛門尉に任ぜられ源実朝征夷大将軍叙任拝賀の際には随兵となり、後鳥羽上皇は光行の武勇と土岐家勢力を期待し院中鍛練の御刀を下賜した。

幕府方の記録である『吾妻鏡』には建保4年(1216年)以降、「土岐左衛門尉」としてその名が散見される。しかし、承久3年(1221年)の承久の乱における動向については同書に官軍としてみえている「土岐判官代」を光行と比定し、多くの美濃国の武士らと同じく京方に付いたとする見方がある一方で、光行が乱の後にも「土岐左衛門尉」として同書に現われていることなどから「土岐判官代」は同族の別人(弟・光時か)であるとし、光行自身は幕府方に付き行動していたとする見方[2]も有力視されるなど明確でない。

「土岐判官代」を光行と比定した説では、光行は承久の乱で後鳥羽上皇の京方として1000の軍勢で参陣し木曽川西岸、稲葉郡鵜村山那の池瀬を守り足利義氏軍100000を相手に対戦するが大敗し美濃守護職を失うが、千葉氏の後見で断罪を逃れ、光定以降、美濃における有力御家人へと成長する。また、光行は居館のあった鶴ヶ城の地を去り土岐郡浅野[3]で土岐川を北にした浅野館(下浅野分堂前)に逼塞した、ここで土岐浅野光行を名乗った。同地にある永松寺の境内に供養塔が存在している。

脚注[編集]

  1. ^ 頼員の父とする。
  2. ^ 『美濃・土岐一族』30-32頁
  3. ^ 現在の岐阜県土岐市肥田町浅野。

出典[編集]