コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

紀伊新宮藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

新宮藩(しんぐうはん)は、現在の和歌山県新宮市紀伊国)を治めた。ただし、藩として正式に立藩されたのは明治元年(1868年)のことである。藩庁は新宮城(和歌山県新宮市)。藩主は和歌山藩御附家老だった水野家で、石高は3万5千石。

藩史

[編集]

新宮戦国時代豊臣家の家臣・堀内氏善が領していたが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に与したために没落する。

その後、紀伊国に封じられた浅野幸長のもとでは浅野忠長が領していたが、浅野本家安芸広島藩へ移封されると忠長も随伴した。その後、安藤家と共に、徳川頼宣の附家老として入った水野重央が、新宮に3万5000石を領した。

水野家の入部をもって紀伊新宮藩の始まりともされるが、幕藩体制のもとでは、身分はあくまで紀伊徳川家の家臣であり、大名としては扱われなかった。水野家は代々家老として藩政に重きを成した。第9代・水野忠央は、後に和歌山藩主から第14代将軍となった徳川家茂(慶福)を補佐し、幕末の大老で有名な井伊直弼と協力して、家茂を第14代将軍にしようと奔走した。

徳川御三家の和歌山藩直轄から新宮城主・水野藩に知行替えが交付された際、現三重県熊野市木本町周辺の住民が猛反対し、当時の藩士吉田庄太夫が奔走して知行替えを中止させている。故人を偲んで木本神社に祀った。[1]

歴代藩主

[編集]

浅野家

[編集]

外様 2万8千石

氏名 院号 官位 在職期間 享年 出身家
1 浅野忠吉
あさの ただよし
大通院 右近大夫 慶長5年 - 元和5年
1600年 - 1619年
75 浅野家

水野家

[編集]

譜代 3万5千石

氏名 院号 官位 在職期間 享年 出身家
1 水野重央
みずの しげなか
全龍院 出雲守 元和5年 - 元和7年
1619年 - 1621年
52 水野家
2 水野重良
みずの しげよし
本廣院 淡路守 元和9年 - 万治元年
1623年 - 1658年
52 新宮水野家
3 水野重上
みずの しげたか
知徳院 土佐守 万治元年 - 宝永4年
1658年 - 1707年
74 新宮水野家
4 水野重期
みずの しげとき
和泉院 淡路守 宝永4年 - 正徳4年
1707年 - 1714年
46 新庄家
5 水野忠昭
みずの ただあき
本徳院 大炊頭 正徳4年 - 寛延2年
1714年 - 1749年
50 定勝流
6 水野忠興
みずの ただおき
本立院 筑後守 寛延2年 - 宝暦13年
1749年 - 1763年
28 定勝流
7 水野忠実
みずの ただざね
法心院 飛騨守 宝暦13年 - 文政5年
1763年 - 1822年
73 忠伸流
8 水野忠啓
みずの ただあき
徳拾院 対馬守 文政5年 - 天保6年
1822年 - 1835年
54 忠伸流
9 水野忠央
みずの ただなか
鶴峯院 従五位下
土佐守
天保6年 - 安政7年
1835年 - 1860年
52 忠伸流
10 水野忠幹
みずの ただもと
真徳院 従五位下
大炊頭
万延元年 - 明治3年
1860年 - 1871年
65 忠伸流

幕末の領地

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ 吉野熊野新聞』2010年6月23日夕刊より抜粋

関連項目

[編集]
先代
紀伊国
行政区の変遷
1600年 - 1871年 (新宮藩→新宮県)
次代
和歌山県