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泉藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

泉藩(いずみはん)は、陸奥国南部(磐城国菊多郡(現在の福島県いわき市泉)に存在した。藩庁は泉陣屋(ただし、歴代藩主は城主格に列せられた)。

概要

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元和8年(1622年)、鳥居忠政磐城平藩から出羽山形藩へ移封された後、平には上総佐貫藩から内藤政長が7万石で入った。このとき、政長の嫡男内藤忠興は父とは別に2万石を領していた。そして寛永11年(1634年)10月、政長が死去して忠興が家督を継ぐと、忠興の2万石は政長の遺命によって末子の内藤政晴が継ぐこととなった。これが泉藩の立藩である。

正保3年(1646年)2月、政晴の子の内藤政親が継ぐ。政親は居館と城下町の建設を行なった。政親の跡を継いだ内藤政森元禄15年(1702年)、上野安中藩へ移封された。入れ替わりで板倉重同が1万5000石で入る。しかし重同の子の板倉勝清延享3年(1746年)9月、遠江国相良藩へ移封となる。入れ替わりで同藩から本多忠如が1万5000石で入る。本多は日本左衛門取り締まりの失敗をとがめられたともいう。次の本多忠籌の時代から財政難が始まったため、藩政改革が始まる。忠籌は倹約令を出し、風俗の取り締まりなども行って、財政再建に尽力した。その実力を時の老中松平定信に認められ、若年寄から御側御用人に取り立てられ、寛政の改革期には老中格にまで栄進して幕政に参与し、武蔵国上野国内に5000石を加増され、合計2万石を領する大名となった。

その後、第5代藩主本多忠徳の時代に藩校汲深館」が設立され、文武奨励・藩風の一新・文化の興隆が図られた。第6代藩主本多忠紀幕末の幕政に寺社奉行奏者番として参与する。そして戊辰戦争では幕府軍に与して新政府軍と戦ったため、忠紀は官位剥奪の上、2000石を召し上げられて強制隠居を余儀なくされた。その後、養子の本多忠伸が家督を継いで藩主となり、明治2年(1869年)の版籍奉還知藩事となる。そして明治4年(1871年)の廃藩置県で、泉藩は廃藩となった。

現存建物

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市内泉町 Y邸に陣屋裏門が移築現存する。

歴代藩主

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内藤家

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2万石 譜代

  1. 政晴
  2. 政親
  3. 政森

板倉家

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1万5000石 譜代

  1. 重同
  2. 勝清

本多家

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1万5000石→2万石→1万8000石 譜代

  1. 忠如
  2. 忠籌
  3. 忠誠
  4. 忠知
  5. 忠徳
  6. 忠紀
  7. 忠伸

幕末の領地

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外部リンク

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先代
陸奥国
行政区の変遷
1634年 - 1871年 (泉藩→泉県)
次代
磐前県