板倉重同
表示
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
---|---|
生誕 | 延宝7年(1679年) |
死没 | 享保2年6月9日(1717年7月17日) |
別名 | 百助、靫負(通称) |
戒名 | 祥額院殿雲峯源端大居士 |
墓所 | 愛知県西尾市貝吹町の長円寺 |
官位 | 従五位下伊予守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川綱吉→家宣→家継→吉宗 |
藩 | 上野安中藩主→陸奥泉藩主 |
氏族 | 神保氏→板倉氏 |
父母 |
神保元茂、板倉重形娘 板倉重形 |
兄弟 |
神保親茂、勝同、遠藤胤貞、神保茂映、 内藤正休 |
妻 | 細川興栄娘 |
子 |
勝清、建部政民正室、朽木直綱正室、 板倉重丘室 |
板倉 重同(いたくら しげあつ)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。上野国安中藩2代藩主、陸奥国泉藩初代藩主。官位は従五位下・伊予守。重形系板倉家2代。
生涯
[編集]延宝7年(1679年)、旗本・神保元茂の次男として誕生。外祖父である板倉重形の養子となり、貞享3年(1686年)に家督を相続する。元禄15年(1702年)7月4日、上野安中藩から陸奥泉藩に移封となる。
享保2年(1717年)に死去した。享年39。跡を長男・勝清が継いだ。
系譜
[編集]父母
正室
- 細川興栄の娘
子女