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遠山友寿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
遠山 友寿
中津川市苗木遠山史料館所蔵
時代 江戸時代後期
生誕 天明6年11月25日1787年1月14日
死没 天保9年11月21日1839年1月6日
改名 左吉→友寿
戒名 聖諦寺殿前濃州大守宗嶽道猶居士
墓所 岐阜県中津川市苗木の遠山家廟所
官位 従五位下・刑部少輔・美濃守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉家慶
美濃苗木藩
氏族 苗木遠山氏
父母 父:遠山友福、養父:遠山友随、母:直
兄弟 養子:友福友寿 [1]
正室:琴(京極高中の養女)、継室:栄綱院 (岡部長教の娘)・於由賀
三男:友禄、加藤友訓、五男: 織田長易、久貝正章
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遠山 友寿(とおやま ともひさ)は、美濃苗木藩の第11代藩主。

略歴

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天明6年11月25日1787年1月14日)第9代藩主・遠山友清の長男の遠山友福の長男として江戸で生まれたが、母の直は、友寿を出産した翌日に没した[2]

天明7年(1787年)4月晦日、第10代藩主・友随の養嗣子となっていた実父の友福が早世した。

そのため、天明8年(1788年)4月22日、祖父の友随の嫡孫となった。

寛政4年(1792年)12月21日、祖父の友随の隠居により、7歳で家督を相続したが、幼少のために肥後人吉藩主の相良長寛の後見を受けた。

寛政9年(1797年)2月9日、将軍の徳川家斉に拝謁した。

寛政12年(1800年)、4月9日に江戸を出発し、4月17日に初めて苗木城へ入城した。

享和元年(1801年)、鍛冶橋御門番・駿府加番を勤めて、12月16日に、従五位下・刑部少輔に叙任された。

藩士に重役心得を申し渡し、指導者の心構えと指導の重要性を強調した。

文化4年(1807年)、乗馬仕立之主意を出し、先代藩主の友随の諸士心得の徹底を図った。

文化11年(1814年)、美濃守に改めた。

同年3月、藩財政の窮乏に近江国信楽代官取扱いの宿場助成貸付金3千両の借用を、領内33ヶ村を引当として申込んで800両の融通を受けるとともに倹約令を繰返し、借上や貸下げ、さらには家臣の統率強化にも務めた。

文政2年9月17日(1819年)、継室の於由賀が、後に苗木藩主となった友禄を生んだ。

文政13年7月(1830年)、衣類の倹約既定の申請書が側向の者に出された。

天保3年(1832年)12月、倹約令で家中借上米が、翌年から3年間実施されたが、藩財政は好転の兆が見られず、借米期間は延長に延長を重ねた。

天保9年(1838年)11月21日、53歳で没し、三男の友禄が苗木藩主を嗣いだ。

墓所は岐阜県中津川市の苗木遠山家廟所。

参考文献

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  • 『苗木藩政史研究』 第一章 苗木藩の成立 第一節 苗木藩の成立事情 二 歴代藩主の素描 十一代美濃守友寿 p15~p16 後藤時男 中津川市 1982年
  • 『中津川市史 中巻Ⅰ』 第五編 近世(一) 第一章 支配体制と村のしくみ 第三節 領主の略系譜 一 遠山家 遠山美濃守友寿 p50 中津川市 1988年 
  • 『恵那郡史』 第七篇 江戸時代 (近世「領主時代」) 第二十八章 諸藩分治 其二 苗木藩距江戸 遠山友寿 p237 恵那郡教育会 1926年 
  • 『福岡町史 通史編 下巻』 第五部 近世 第一章 近世における苗木藩の概観 第一節 苗木藩成立と領村支配 苗木遠山氏と藩主 p1~p8 福岡町 1992年

脚注

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  1. ^ 遠山友福の長男で遠山友清の養子
  2. ^ 法名は、芳信院殿劫外寿貞大姉で江戸高輪の東禅寺に葬られた。