藤川晋之助
藤川 晋之助(ふじかわ しんのすけ、1953年〈昭和28年〉10月31日生まれ - )は、日本の選挙プランナー、政治家。大阪市会議員(2期)、減税日本選挙対策事務局長・東京本部事務局長・政策顧問、東京維新の会事務局長などを歴任。参謀役を務めた選挙は130勝14敗(2024年8月時点)[1]であるとされ、「選挙の神様」とも呼ばれる[2]。本名は、藤川 基之(ふじかわ もとゆき)[1]。
来歴
大阪府大阪市出身。中学生の頃、1969年に発生した東大安田講堂事件をきっかけに政治に目覚める[3]。当初は反米思想の持主であったが、徐々に共産主義の拡大を止めなければならないと思うようになったという[1]。高校生の時に日本学生同盟に入り、国士舘大学入学後も活動した[1]。大学卒業後、23歳で自民党田中派の山本幸雄衆議院議員(後の自治大臣)秘書となる[3][1]。
1991年、37歳で自民党から大阪市会議員に初当選する(当時は本名の藤川基之名義)。その後、自民党を離党し、小沢一郎率いる新生党に参加[3]。2期目途中の1996年に第41回衆議院議員総選挙大阪6区から旧民主党公認で立候補するが、落選。1998年4月には三重県名張市の市長選挙に立候補したが、現職の富永英輔に敗れ落選[4]し、政治家の道を断念する[3]。
その後、インドネシアで事業を手掛けたが、アチェ紛争で帰国。民主党に合流していた小沢に選挙の手伝いを要請され、永田町に戻る[3]。2009年の第45回衆議院議員総選挙では、群馬4区の三宅雪子陣営に入り、盤石の地盤を持つ福田康夫元首相を猛追した[3]。要請に応じて民主党のほかみんなの党の選挙参謀も務め[3]、2012年には減税日本の選挙対策事務局長・東京本部事務局長・政策顧問を務めた[5]。
2017年からは東京維新の会(日本維新の会東京都総支部)の事務局長を務め、2022年の第26回参議院議員通常選挙後に退職。この間、当初0人だった東京での維新の国会議員を比例代表を含め5人へと躍進させた[3]。
2019年8月の埼玉県知事選挙では、野党候補の一本化に尽力した[3]。
2024年7月の東京都知事選挙では、ドトールコーヒー創業者の鳥羽博道からの要請もあり[6]、石丸伸二前安芸高田市長陣営の選対事務局長を務めた。石丸は前参院議員の蓮舫を押さえて、2位となった[7]。
同年9月の自由民主党総裁選挙では、高市早苗陣営の支援に入った。都知事選同様、鳥羽からの支援要請があったほか、高市の国家観に共鳴したという。大阪市議時代に非自民に転じていた藤川が自民党総裁選に本格的に関わるのは、1982年自由民主党総裁選挙以来42年ぶりであった[8]。
同年11月の兵庫県知事選挙では、再選を目指す斎藤元彦から支援を求められたが、藤川の友人である清水貴之もこの選挙に出馬していたため、「不義理はできない」として要請を断った[9]。選挙後、斎藤の勝利を受けて、NHKから国民を守る党の立花孝志の選挙中での動きを評価し、共闘を公表している[10]。
脚注
- ^ a b c d e “「石丸伸二氏から一銭ももらわず」藤川晋之助氏、選挙の神様は「政界の大谷翔平を探す」”. 産経新聞. (2024年8月23日) 2024年8月25日閲覧。
- ^ “日本で唯一の首長予備校 開設”. 毎日新聞. (2023年4月30日) 2023年6月30日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j “141戦してわずか11敗…「選挙の神様」が残りの人生を政界再編に掛ける理由”. 東京新聞. (2022年12月22日) 2023年6月30日閲覧。
- ^ “名張市長選(1998年4月12日)”. 中日新聞. (1998年4月12日) 2023年6月30日閲覧。
- ^ 平成24年度 役員 | 減税日本
- ^ “石丸伸二氏が「政界の大谷翔平になれ」に返した言葉は意外なものだった…都知事選の参謀役が語る素顔と課題”. 東京新聞. (2024年7月29日) 2024年9月18日閲覧。
- ^ “「石丸フィーバー」なぜ起きた? 「政治が面白い」「人柄を信じられる」と無党派層に言わせた独自の戦略”. 東京新聞. (2024年7月7日) 2024年7月9日閲覧。
- ^ “〝選挙の神様〟藤川晋之助氏、高市早苗氏を支援 自民総裁選で「国家観に共鳴」”. 産経新聞. (2024年9月17日) 2024年9月18日閲覧。
- ^ 「せっかくの優秀な人材があんな形で足を引っ張られるなんて…」《選挙の神様》藤川晋之助から見た「齋藤知事と立花孝志」(週刊現代 2024.12.18)
- ^ 立花孝志 (2024年12月2日). “選挙の【神様】藤川晋之助さんと立花孝志が共闘! これで日本の政治は一気に動きます。”. YouTube. 2024年12月2日閲覧。