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狐憑き

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狐憑き(きつねつき)は、キツネの霊に取り憑かれたと言われる人の精神の錯乱した状態である。また、そのような精神状態にある人、そのような事が起こり得ると信じる信仰、迷信をもいう。

概要

文献上は、「今昔物語」本朝附霊鬼部第四十に、「物託(ものつき)の女、物託つて云く、己は狐也、祟をなして来れるに非ず、ただ此所には自ら食物散らふものぞかしと思ひて指臨き侍るを以て被<二>召籠<一>て侍るなり(以下省略)」(<一>、<二>は返り点)とあるのが最古の例であるという。藤原実資は「小右記長元4年8月の条に、狐憑きについて記し、建長年間の「古今著聞集」、応永年間の「中原康冨記」にも記述がある。

江戸時代は狐憑きに関する記述が豊富で、たとえば「和漢三才図絵」の「狐托<二>於人<一>也、強気者則不<レ>能<レ>托、蓋邪気乗<レ>虚入之謂也」という説が武士階層に信じられ、また、加藤嘉明の逸話なども語られた。

それは「松亭反古嚢」によれば、「そのむかし、加藤左馬助嘉明、里人を従へて野を逍遙す、狐叢に眠るを見て、里人に命じてこれを撃たしむ、然るに、その狐里人に托いて種々の譫言をし、狂ひ廻るによりて、その親族大に駭き、祈祷加持を営めど、さらに退かず、一時一人の導士来り、われこれを退かしめんと数珠を揉みて経を誦す、時に嘉明ここに来り、この体を見てうち笑ひ、かれもまた狐なりと、鳥銃をもて撃殺すに、果して年回る狐なり、これ元来嘉明に寇すべき筈なるを、強気により托く事かなはず、因て里人に托きたるなり」という。

「谷響続集」には、「魅惑与(ばかすこと)<二>悩者(つくこと)<一>事殊也」(<二><一>は、返り点)といい、「武徳編年集成」には、「浮田秀家の室、妖恠に侵され悩乱す、秀吉(省略)来臨これ老狐の所為たる由を聴玉ひ、一簡を稲荷の祠官に投ぜらる」といい、武士の間で信じられていたが、医家の間でも、たとえば原南陽は、巫覡のいわゆる狐の13種類を信じ、その検査、治療は修験道者の加持祈祷によるとした。

文化年間、鳥取藩の医家の陶山大禄が初めて、狐憑きの妄誕無稽であることを論じて、「人狐弁惑」で、「狐憑は狂癇の変証にして所謂卒狂これなり、決して狐狸人の身につくものにあらず」として、キツネが霊獣ではない例証、狐憑きが馬憑きに変わる例を挙げ、「畢竟これ皆精神錯乱の致すところなり」と結論した。しかし、これは学者間のことで、民間ではなおこの迷信を払拭することはできなかった。

明治25年、島村俊一は明治政府の命により島根県で狐憑きを渉猟し、その結果を報告し、26年、榊俶は狐憑きを精神病的に観察、報告し、呉秀三は「精神病学集成」で初めて狐憑症として記述し、「狐憑病は、鬼魅憑依などの一種にして、精神病に於て地方普通の妄信の檀呈するものに他ならず、而してその妄信の主として依托するところは、その症を構成する各原障礙なり、されば西洋には、狼憑、犬憑、鬼憑ありて狐憑なく、所謂狐憑なるもの、わが国に於ては頗る多く、狂疾を視て直に以て狐憑とするもの少なかあず、而してその色容を帯び来るの証候は、大体三種あり、曰く妄想に発するもの、曰く妄覚ない発するもの、曰く本人意識の変常に発するもの、これなり」とした。

明治35年、門脇直枝は「狐憑病新論」で狐憑統計表を示し、狐憑症と精神病原障礙との関係を明らかにした。ベルツは、狐憑きの学問的報告を政府に行ない、政府は官報で、狐憑の俗見の払拭に努めた。

関連項目

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