樺太
樺太(からふと)は、北海道の北に位置する樺太島(露 : サハリン・Сахалин 、北 : 庫頁島)を指す地域名称である。現在は全域がロシア連邦の支配を受け、樺太はサハリン州の主要部を構成している。
幕末以来、日本とロシアの間で領有者がたびたび変遷したが、ポーツマス条約締結以降北緯50度以南は日本領、以北はロシア領となった。日本は日本領南樺太に樺太庁を置き、後に本土に編入したが、第二次世界大戦末期、ソビエト連邦が日本に対して日ソ中立条約を一方的に破棄して宣戦を布告、南樺太を占領した。日本はサンフランシスコ講和条約締結によって南樺太の領有権を放棄しているため、日露両国政府間に南樺太をめぐる領土問題はないが、南樺太を占領したソビエト連邦がサンフランシスコ講和条約に参加しておらず、その後も南樺太の領有に関する条約や協定等が締結されていないため、国際法上、南樺太の帰属は未確定である。なお、日本国内では南樺太の領有権問題も存在するが、あまり議論の対象になる事が無い。
名称
「からふと」の名は、アイヌ語でこの島を「カムイ・カラ・プト・ヤ・モシリ kamuy kar put ya mosir」と呼んだことに因んでいる。この名前はアイヌ語で「神が河口に造った島」を意味し、アムール川の河口からみてその先に位置することに由来する。
江戸時代は北海道を指す「蝦夷地」に対して、「北蝦夷(地)」と呼ばれていた。のちに明治政府が北海道開拓使を設置するにあたり、北蝦夷地を樺太と改称、日本語に樺太の地名が定着した。
近年、日本の報道機関各社は樺太という名称を極力使用せず、サハリンという名称を積極的に使用している。
歴史
氷河期には大陸と陸続きだった。日本(間宮林蔵など)やロシア(帝国)の到達以前は南部にアイヌ民族、中部にウィルタ民族(アイヌ民族はオロッコと呼んだ)、北部にニヴヒ民族(ニヴフとも)などの北方少数民族が先住していた。
先住民自治期
- 640年、「流鬼」(樺太アイヌ)が唐に入貢。
- 1264年、蒙古帝国(のちの元)が3000人の軍勢を樺太に派兵し、住民の「骨嵬」(樺太アイヌ)を朝貢させる。
- 1284年、「骨嵬」が元に反乱を起こす。
- 1295年、日持上人が日蓮宗の布教活動の為に樺太へ渡る。
- 1297年、日本の津軽地方を本拠地とする蝦夷管領安東氏が「骨嵬」を率いてシベリアの黒竜江(アムール川)流域に侵攻する。
- 1308年、「骨嵬」、元に降伏。毎年の貢物を約束。
- 1368年、元が支那大陸の支配権を失い北走、満州方面を巡って新興の明を交えての戦乱と混乱が続き、樺太への干渉は霧消する。
- 1411年、明が樺太遠征を計画。
- 1485年、樺太アイヌの首長が武田信広(松前藩祖)に銅雀台を献ずる。
- 1593年、豊臣秀吉が松前慶広に蝦夷地全域の支配権を付与。
- 1635年、松前公広が村上掃部左衛門を樺太巡りに派遣するし、ウッシャムに至る。
- 1644年、江戸幕府が松前藩から提出の所領地図を基に作成した「正保御国絵図」に、樺太が北海道の北の大きな島として記載されている。
- 1679年、松前藩の穴陣屋が久春古丹(大泊)に設けられ、日本の漁場としての開拓が始まる。
- 1709年、清の皇帝が3人のイエズス会修道士に命じて清国版図測量中に黒竜江河口対岸に島があると聞き、現地民の通称であるサハリン・ウラ・アンガ・ハタという名で呼んだ(清は樺太の存在を認知したが、その版図には加えられなかった)。
- 1742年頃、樺太アイヌが清商人を略奪し、清の役人が樺太アイヌを取り締まる。
- 1790年、松前藩が南樺太南端の白主に商場を設置する。
- 1799年、樺太南部など蝦夷地が幕府の直轄地となる。
日露の領土競争時代
- 1806年、ロシア海軍士官らが久春古丹を焼き討ちにする。
- 1807年、樺太南部が再び幕府の直轄地となる。ロシア海軍士官が択捉島とともに留多加を襲撃する。
- 1808年、江戸幕府が、最上徳内、松田伝十郎、間宮林蔵を相次いで派遣。松田伝十郎が樺太最西端ラッカ岬(北緯52度)に「大日本国国境」の標柱を建てる。
- 1809年、間宮林蔵が樺太が島であることを発見し、呼称を北蝦夷と正式に定める。松田伝十郎が樺太統治に貢献した。また、山丹貿易を幕府公認とし、アイヌを事実上日本人として扱った。
- 1821年、樺太が松前藩領になる。
- 1853年、ロシアが、北樺太北端クエグト岬に露国旗を掲げ、領有を宣言。ロシア軍が久春古丹を襲撃する。ロシア使節プチャーチン来日。長崎に於いて樺太・千島の国境交渉と交易を求め、日本全権筒井肥前守・川路聖謨と交渉したが、決裂した。
- 1855年、日魯和親条約により、1852年までに日本人(大和民族)とアイヌ民族が居住した土地は日本領、その他当面国境を定めないことを決定した。
- 1859年、ロシア東部総督ムラヴィヨフは、軍艦7隻を率いて品川に来航。樺太全土は露領と威嚇したが、幕府はこれを拒否する。
- 1865年、岡本監輔が、樺太最北端ガオト岬(北緯55度)に至り、「大日本領」と記した標柱を建てる。
- 1867年、ロシアが強大な軍事力を背景にペテルブルグの国境交渉で、幕府に迫り、樺太仮規則に調印。初めて正式に日露両国の共同管理地となり、両国民が雑居したが、紛争が絶えなかった。
- 1870年2月13日、樺太開拓使が開拓使から分離して、久春古丹に開設される。
- 1871年8月7日、樺太開拓使を閉鎖し、開拓使に再度統合する。
全島のロシア領期
南部の日本領編入期
- 1905年9月5日、日露戦争後のポーツマス条約締結により、北緯50度以南の樺太島(南樺太)がロシアより日本へ割譲されて領土となり、樺太民政署を置く。
- 1907年3月15日、樺太民政署が格上げされ、樺太庁発足。
- 1908年3月31日、内務省告示にて、地名を日本語式漢字表記に変更。
- 1915年6月26日、勅令第101号樺太ノ郡町村編制ニ関スル件により、17郡4町58村が設置される。
- 1918年からのシベリア出兵の際に日本は北部も占領したが、1925年に撤兵する。
- 1929年、拓務省の指示下に樺太庁が編入される。
- 1929年3月26日、樺太町村制が公示され、町村に自治制が敷かれる。
内地時代
戦後の樺太
- 1951年9月8日 - サンフランシスコ講和条約締結により、南樺太の領有権を放棄し現在にいたる。
南樺太を占領し、同地を自国領の一部として主張するソ連が同条約に参加していなかったことから、日本政府は南樺太については帰属が未定であるとの立場を取っている。しかしながら、実質的にはソ連、およびそれを継承したロシアの施政下にある。また、日本側は現地滞在者の便宜をはかるため、ユジノサハリンスクに日本総領事館を設けている。
地理
樺太島は、面積76400km²で、北海道よりやや小さい島嶼である。
南の北海道とは宗谷海峡で隔てられている。北は間宮海峡を隔ててユーラシア大陸と向かい合い、西の日本海、東のオホーツク海に囲まれている。
- 樺太の高峰
- 樺太の湖沼
現在、樺太の周囲には天然ガス田が存在すると見られ、開発に向けて日本はじめ各国が動いている。石油メジャー、日本の大手商社が開発に参加。2004年、採掘された最初の石油が日本に輸出された。
樺太は、ポーツマス条約による分割によって北緯50度線を境界として、北のロシア領と南の日本領に分断された。この記事では以下、北緯50度以北を北樺太、以南を南樺太とする。
北樺太
北樺太は、樺太・千島交換条約以来のロシア領であり、ロシア帝国時代は沿海州、ソビエト時代以降はサハリン州に属する。代表都市はオハやアレクサンドロフスク・サハリンスキーなどである。
ソビエト連邦建国の父レーニンは、ロシアによる北樺太領有は帝政時代の武力を背景にした領土奪取であると認識していたため、ソビエト成立当初は日本への返還も考えられていたが、実際には行われなかった。その後、ソビエトは対日融和政策のため北樺太の石油利権を日本に与え、開発を行わせたこともある。
南樺太
南樺太は日本の統治時代には樺太庁として本土(内地)の一部とされ、およそ40万人の人口を抱えていた。当時の主要な産業は漁業、農業、林業と製紙・パルプなどの工業、石炭・石油の採掘業などであり、これらは第二次世界大戦後もロシア人に引き継がれてサハリン州の主要産業となっている。
南樺太は樺太庁の置かれた豊原を中心都市としていたが、この街は現在サハリン州の州都ユジノサハリンスクとなっている。
南樺太を巡る領土問題
日本の領有主張は北方領土問題に比べると先鋭化していないが、日本の中では、一方的な南樺太の占領は侵略であり、ソ連の国際法違反(日ソ中立条約違反)、サンフランシスコ講和条約への調印拒否、ヤルタ協定の無効性、日本固有の少数民族アイヌ民族が古来から生活していたことなどを根拠に、南樺太は日本固有の領土であるとして返還要求をしている人々もいる。
ポーツマス条約を、両国の平和裏の話し合いによって決定されたと判断するか、カイロ宣言が規定する暴力によって奪取した地域・つまり日露戦争によって奪った地域と解釈するかにより、主張が異なる。ただし、カイロ宣言そのものは米・英・華の3国によって話し合われたが合意には至っていなかったので、本来拘束される必要はないとも考えられる。
日本の返還要求等の根拠
- 日本固有の少数民族・アイヌ民族の古来からの樺太居住
- 江戸時代以来、日本の行政主権が及んでいた事
- ソ連自身によるポツダム宣言違反(捕虜の強制連行)による権利の毀損性
- サンフランシスコ平和条約下ではソ連による南樺太、千島領土主権の取得ができないためソ連がサンフランシスコ平和条約調印を拒否したこと(日本は南樺太・千島を放棄させられたが、ソ連はこの条約に調印していないため、「日本は国境に関して、ロシアに対し従前の関係であり南樺太・千島を放棄していない」または「ロシアは日本の南樺太・千島の放棄を認めていない」と定義)
- ポーツマス条約が南樺太に関する最後の有効的条約との定義
- 日ソ基本条約によりソ連政府が承認した南樺太の日本領有権の有効性(南樺太に対する最後の有効的条約と定義)
- 日ソ中立条約によりソ連政府が認定した日ソ両国の領土権尊重規定の有効性
- ソビエト連邦による日本領土侵攻(日ソ中立条約違反)降伏後なお明白な侵略意図による継続侵攻を実行したこと
- ソビエト連邦による国際法を無視した国内的南樺太編入措置の無効性、樺太庁管内住民のソ連による強制送還の違法性
- 日露最古の条約日露和親条約 の雑居地概念(この場合得撫島以北の千島列島領有権はない)以前にさかのぼれば、南樺太における日本権益の法的発生が日露戦争による一方的併合で開始されたといえないこと
- 当事国を無視したヤルタ協定自体の無効性
ロシアの主張
- サンフランシスコ平和条約による日本の南樺太放棄(この場合国際法上は領有権者なし)
- ヤルタ協定の有効性
- ソ連国内法による南樺太併合措置、ロシア連邦に至る実効支配の既成事実
- 日本の対ソ無条件降伏(なお、講和条約は未成立)
- 日露戦争で奪われた領土の奪還
- 戦争での領土略奪の正当性
- 日本政府の承認(ユジノサハリンスクでの総領事館開設や、航空協定等の締結)