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立花宗茂

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立花宗茂(たちばなむねしげ、永禄10年11月18日1567年12月18日)一説永禄12年8月13日1569年9月23日)? - 寛永19年11月25日1643年1月15日))は安土桃山時代武将江戸時代初期の大名高橋紹雲の嫡男。立花道雪の養嗣子。宗茂は晩年の名乗りであり、幼名千熊丸、弥七郎、元服後統虎、鎮虎、宗虎、正成、親成、尚政、俊正、経正、信正、立斎、左近将監、飛騨守は幾度に名前變い。

生涯

少年時代

天正9年(1581年)、男児の無かった大友氏の家臣・立花道雪は立花氏の跡継ぎとして高橋紹雲の子・統虎(宗茂の初名)を養嗣子として迎えようとした。紹雲は統虎の優秀な器量と、高橋氏の嫡男であるという理由から最初は拒絶しようとしたが、道雪が何度にもわたって請うてきたために拒絶できず、統虎を道雪の養子として出している。このとき、統虎は道雪の娘の誾千代(ぎんちよ)と結婚して娘婿となることで家督を継いだ。だが、この道雪の娘とは仲があまり良くなく、道雪の死後、子が恵まれないうちに別居して別れたという。

1581年)11月、父とともに出陣、対秋月戦の嘉麻、穂波の戦いで初陣を飾る。 その帰還の途中の大友筑前勢を秋月氏は追撃にでた。これにより石坂で両軍は接触。戦闘となった。この合戦で統虎は堀江備前と組み討ちし、押さえつけ、荻尾大学に首を打たせている。 (1584年)8月、道雪、紹運の両将は大友氏の筑後奪回戦に参加するべく出陣。統虎は道雪出陣後の立花山城の留守を守る事となった。この時、秋月種実率いる八千の兵が攻め寄せたが統虎は夜襲でこれを撃破した。


豊臣時代

統虎は父に高橋紹雲、養父に立花道雪という天下の二大猛将を父にもったことから、智勇に優れた名将であり、統虎が行くところ、敵なしとまで言われるほどであった。天正14年(1586年)、島津軍筑前に侵攻してきたとき、父の紹雲は岩屋城にて徹底抗戦した末に玉砕した。このとき統虎も立花山城で徹底抗戦する、積極的に遊撃戦術を使い、更に詐降の計、島津の本陣奇襲成功、数百人の首級をあげた。島津軍は紹雲との戦いですでに消耗していたため、立花山城を攻めあぐみ、撤退するしかなかった。このとき統虎は、島津軍を追撃、高鳥居城を攻略、岩屋・宝満の二城奪還して武功を挙げている。その時、大友宗麟をして豊臣秀吉へ、「義を専ら一に、忠誠無二の者でありますれば、ご家人となしたまわりますよう」と言わしめた程の武将である。その後も豊臣秀吉九州平定戦で活躍し、戦後、秀吉からその功を認められて筑後柳川に13万2000石を与えられ、大友氏から独立した直臣大名にまで取り立てられた。このとき秀吉は、統虎を「その忠義も武勇も西国随一である」「九州の逸物」(原文:その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一。)と高く評価したという。

天正15年(1587年)、佐々成政移封後の肥後で、大規模な国人一揆が発生したときは、1日に13度もの戦いを行い、一揆方の城を7城も落とし、600の敵兵を討ち取るという武功を上げている。天正18年(1590年)の小田原征伐にも従軍する。このとき、秀吉は諸大名の前で、「東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、西には立花統虎という天下無双の大将がいる」と、その武将としての器量を高く褒め称えたという。

文禄元年(1592年)からの文禄の役にも参陣し、その参陣中に小早川隆景を義父とし、小早川秀包とも義兄弟の契りを結ぶ。碧蹄館の戦いで小早川隆景が「立花家の3千は他家の1万に匹敵する」と評するほどの獅子奮迅の活躍により多大な戦功を上げた、鉄砲の速射、奇襲戦を活用し、数を誇る明軍を撃破。更に慶長の役蔚山での戦いで加藤清正は、明軍の十重十二重の包囲を受け、窮地に陥っていた。それを知った宗茂はわずか500の兵を率い夜襲を行い、明軍の包囲網を突破、加藤清正を救出した。加藤清正を"日本軍第一勇将"と絶賛させた見事な戦いぶりであった。

関ヶ原

慶長5年(1600年)、関ケ原の戦いでは、その直前に徳川家康から法外な恩賞を約束に東軍に付くように誘われたが、統虎は、「秀吉公の恩義を忘れて東軍側に付くのなら、死んだほうがマシだ」と言い拒絶した。そして石田三成率いる西軍に属し、伊勢方面に進出する。その後、毛利元康毛利秀包小早川秀包)、宗義智筑紫広門共に東軍の京極高次が守る大津城を攻めた。しかし、9月15日の本戦には大津城を攻めていたために参加できず、本戦での西軍壊滅を知って、大坂城に引き返した。

大坂城に退いた後、統虎は東軍に対して大坂城に籠もって徹底抗戦しようと総大将の毛利輝元に進言したが、惰弱な輝元はその進言を聞かずに開城、徳川家康に恭順したため、統虎は自領の柳川に引き揚げた。なお、柳川に引き上げる時に高橋紹運の仇である島津義弘と同行した。「今こそ父の仇を打つべし」という家臣の意見を無視し、島津義弘と友誼を結び、無事に柳川まで帰りついた。 しかしそこも、加藤清正鍋島直茂黒田孝高(如水)に攻められ、立花方の家老小野鎮幸を総大将とし、一千三百余人の兵を率いて、鍋島三万二千の大軍を封じ、江上八院の決戦で一度は勝利を収め、後に本城である柳川城に篭城し、加藤清正の説得を受けて降伏・開城することとなる。

江戸時代

関ケ原後は改易されて浪人となるが、その器量を惜しんで清正や前田利長から家臣となるように誘われるが、統虎はこれを拒絶した。そこで清正は、家臣にすることを諦め、食客として遇したという。しかしその才能は徳川家康からも惜しまれて慶長9年(1604年)、幕府の御書院番頭(将軍の親衛隊長)として招かれ、陸奥棚倉に1万石を与えられ、大名として復帰した。大坂の陣のときも、家康は統虎が豊臣方に与するのを恐れて、その説得に懸命に当たったという。そして元和6年(1620年)、徳川秀忠から旧領の筑後柳河に11万石を与えられて、大名として完全に復帰を果たした。また、戦国武将としては世代が若く伊達政宗加藤嘉明(寛永8年(1631年)没)とともに、徳川家光に戦国の物語を語る相伴衆としての役目も果たした。寛永14年(1637年)には島原の乱にも参陣し、晩年は宗茂と名乗って、寛永19年(1642年)、76歳で死去した、法名大円院殿松陰宗茂大居士

正室の誾千代を弔うために、瀬高の来迎院の住職で、かつての柳川城主の蒲池鑑盛(蒲池宗雪)の孫である円蓮社応誉上人雲冏和尚を招き、良清寺が創建された。

人物評

『名将言行録』では、宗茂のことを『人となり温純寛厚。徳ありて驕らず。功ありて誇らず。人を用ふる、己に由る。善に従ふ。流るるが如し。奸臣を遠ざけ、奢侈を禁じ、民に撫するに恩を以てし、士を励ますに、義を以てす。故に士、皆之が用たるを楽しめり。其兵を用ふるや、奇正天性に出づ、故に攻めれば必ず取り、戦へば必ず勝てり』と高く評価されているように、宗茂はその才能を、豊臣秀吉や徳川家康からも高く評価されていた。また、宗茂の関ケ原後からの大名としての復帰も、幕府が寛大な処置を取った唯一の例である。

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