大友義鎮
大友宗麟像(瑞峯院所蔵) | |
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
生誕 |
享禄3年1月3日(1530年1月31日) もしくは同年5月4日(5月30日) |
死没 | 天正15年5月23日(1587年6月28日)[1] |
改名 | 塩法師丸(幼名)、義鎮、瑞峯休庵宗麟 |
別名 |
五郎、新太郎(仮名)。宗滴、円斎、府蘭、玄非斎、三玄斎、三非斎(号)、 普蘭師司怡、不龍獅子虎[2] 渾名:豊後の王、九州の王 |
戒名 | 瑞峯院殿羽林次将兼左金吾休庵宗麟大居士 |
霊名 | ドン・フランシスコ(普蘭師司怙) |
墓所 |
大分県津久見市津久見 京都市北区瑞峯院 位牌は津久見市上宮本町の響流山長泉寺 |
官位 |
正四位下、左近衛少将、左衛門督 贈正三位[3] |
幕府 | 室町幕府:豊後・豊前・肥前・肥後・筑前・筑後守護、九州探題 |
主君 | 足利義晴→義輝→義栄→義昭→豊臣秀吉 |
氏族 | 大友氏(藤原氏秀郷流) |
父母 |
父:大友義鑑 母:坊城氏 |
兄弟 | 義鎮(宗麟)、大内義長、塩市丸、隼人[4]一条房基室、河野通宣室、吉弘鑑理室(貞善院義誉静音)、小田部鎮元室、城井鎮房室、親貞 |
妻 |
正室:一色義清娘・宝岸寺殿 継室:奈多夫人(奈多鑑基娘) 側室:一萬田夫人(一萬田親実娘)など7人。 |
子 | 義統、親家、親盛、女子(長女、母は一色氏)、ジェスタ (一条兼定継室のち清田鎮忠継室)、久我三休室、奈多鎮基室、一萬田鎮実室、母里友信室、臼杵統尚室、桂姫(小早川秀包室) |
大友義鎮(宗麟) | |
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神宮寺浦公園(大分県大分市)にある大友宗麟像 | |
教会 | カトリック教会(キリシタン) |
洗礼名 | ドン・フランシスコ |
受洗日 | 1578年 |
大友 義鎮(おおとも よししげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。キリシタン大名でもある。大友氏の21代当主。宗麟(そうりん)の法号で知られている。洗礼名は、ドン・フランシスコ。豊後の王と称された。
父は20代当主・大友義鑑。母は公家の坊城氏の娘とする説がある。 弟に大内義長、塩市丸、親貞など[注釈 1]。子に義統(吉統)、親家、親盛など。
中国明朝への遣明船の派遣をはじめ、琉球、カンボジア、ポルトガルを相手とした海外貿易による経済力、優れた武将陣、巧みな外交[注釈 2][注釈 3]により版図を拡げ、大内氏や毛利氏をはじめとする土豪・守護大名などの勢力が錯綜する戦国時代の北九州東部を平定した。
当初は禅宗に帰依していたが、後にキリスト教への関心を強め、ついに自ら洗礼を受けた。最盛期には九州6か国を支配して版図を拡げた。しかし、薩摩から北上した島津義久に敗れ、晩年には豊臣秀吉傘下の一大名となった。
大友氏は鎌倉時代から南北朝時代にかけて、少弐氏・島津氏と共に九州の幕府御家人衆の束ね役として権勢を振るい、室町時代に入ってからは大内氏の九州進出に対し、少弐氏と結び大内氏と抗争していた。大友氏は豊後国と筑後国の守護に幕府より代々補任される、いわゆる守護大名であった。
生涯
[編集]家督相続
[編集]享禄3年(1530年)1月3日(または5月4日)、大友氏20代当主・大友義鑑の嫡男として、豊後国府内に生まれた。傅役は重臣の入田親誠が務めた。幼名は塩法師丸。
天文9年(1540年)2月3日、塩法師丸は元服し、室町幕府の第12代将軍・足利義晴から一字拝領を受け、義鎮と名乗った[5]。
義鎮が20歳の頃、父の義鑑は義鎮の異母弟である塩市丸に家督を譲ることを画策して、傅役の入田親誠らと共に義鎮の廃嫡を企んだ。
天文19年(1550年)2月、義鎮を強制的に別府浜脇に湯治に行かせ、その間を利用して義鎮派(田口鑑親(蔵人佐)、津久見美作(実名不明)や齋藤長実、小佐井大和守ら)の粛清が計画されたが、この動きを察知した義鎮派重臣が反撃を起こした。
2月10日、塩市丸とその母は殺害され、義鑑も負傷して2月12日に死去した(二階崩れの変)。義鑑の遺言により、義鎮が家督を相続し、大友氏21代目の当主となった。同時に入田ら反義鎮派は「義鑑暗殺」の首謀者として粛清された。
勢力拡大
[編集]天文20年(1551年)に周防国の大名大内義隆が家臣の陶隆房の謀反により敗走自害すると、陶隆房の申し出を受けた義鎮は、実弟の晴英(大内義長)を大内氏の新当主として送り込んだ。これにより大友氏は、室町時代を通した大内氏との対立に終止符を打つと共に、北九州における大内氏に服属する国人勢力が同時に大友氏にも服属することになり、さらに周防・長門国方面にも影響力を確保した。特に筑前博多の支配権を得たことは、大友氏に多大な利益をもたらした。弘治3年(1557年)に連合で派遣した遣明船で、義鎮は倭寇禁制使の蔣洲を護送して勘合頒布を求め、義長は倭寇被虜人を送還するとともに大内氏所有の「日本国王」印(毛利博物館現存)を用いて朝貢した。
また、肥後国での復権を目論む叔父の菊池義武の蜂起を退け、菊池氏を滅亡させて肥後国も手中にした。さらに少弐氏や肥前国人の竜造寺氏に勝利し、天文23年(1554年)に肥前国の守護にも任じられた。しかし、父の死(二階崩れ)以降の大友氏家臣中には軋轢が残っており、さらに義鎮がキリスト教に関心を示してフランシスコ・ザビエルら宣教師に大友領内でのキリスト教布教を許可したことが、大友家臣団内の宗教対立に結び付き、天文22年(1553年)に一萬田鑑相[注釈 4]と宗像鑑久兄弟と服部右京亮、弘治2年(1556年)には小原鑑元が謀反を起こすなど(姓氏対立事件)、義鎮の治世は当初から苦難の多いものであった。
弘治3年(1557年)、実弟の大内義長が毛利元就に攻め込まれて自害し大内氏が滅亡すると、大友氏は長門周防方面への影響力を失った。長門周防の旧大内氏領土を併呑した毛利氏が北九州に進出してくると義鎮はこれと対立し、毛利氏と内通した筑前国の秋月文種を滅ぼし、毛利氏を追い、北九州における旧大内領を確保することに成功した。
この頃に義鎮は本拠地を、豊後府内の大友館から丹生島城(臼杵城)に移している[注釈 5]。現在は陸続きとなっているが、当時の丹生島は三方を海に囲まれ、西方は干潮時にだけ陸続きとなる天然の要害であった。この本拠地移動に関しては、北の毛利氏からの攻撃を警戒し南遷した、日向国経営のために南遷した、家臣団の反乱に備えた、府内の寺社仏閣や商人などの旧勢力の影響から逃れつつ新しい経済都市を形成しようとした、など諸説ある。
大内氏の領国を完全併呑することはできなかったが、義鎮は北九州一円を実質的に支配した。天文23年(1554年)に13代将軍・足利義輝に鉄砲や火薬調合書を献上するなど、従来から大友氏は足利将軍家との関係を強化していた。
九州探題
[編集]永禄2年(1559年)、義輝に多大な献金運動をして、同年6月には豊前国・筑前国両国の守護職[7]に任ぜられ、同年11月には九州探題に補任された[8]。またさらに、大内氏の家督(大内の当主を義鎮が大内一族から選んで決めてもよいし、義鎮自身が大内の当主になってもよい、という権利)それに伴う周防・長門の守護の資格(九州から渡海し、中国地方に攻めこんで領有しても良いという許可)も得た。これにより実効支配だけではなく、九州特に北九州の領有と支配に幕府の権威が与えられ、さらに毛利氏を追捕する権利を持ち、毛利氏に味方し大友氏に逆らう者は将軍の敵と認定される形となった。
永禄3年(1560年)、左衛門督に任官された。これは従来の大友氏家督の「修理大夫」より上位の官位であり、当時公家以外では畠山氏以外には任官されていなかった高官である。また、3月には足利義輝より義鎮に対する御内書に、父義鑑の代に足利義晴より下賜された桐紋について、「萬松院殿(義晴)代紋を遣わさる由、目出たく候。一続(一族)と為す可く其の旨存じ可く候」とあることから朝廷や足利将軍家に多大な献金を行っていたことと、その信頼を受けていたことを察することができる。
このように義鎮は名実共に九州における最大版図を築き上げ、大友氏の全盛期を勝ち取った。
しかし、永禄5年(1562年)、門司城の戦いで毛利元就に敗れ、同年に出家し休庵宗麟と号した。永禄5年9月13日には、宇佐八幡宮への寄進を表明して、毛利氏に対する戦勝を祈願したが、この時、毛利氏の行為を具体的侵攻であるのみならず、八幡大菩薩の神敵と非難している。即ち、世俗の次元に加えて信仰の次元においても敵の不正義・味方の正義を強調している。これは武士や平民を動員する上でのいわゆる理論武装として、前述の幕府や朝廷の権威・御墨付きだけでは足りず、宗教上の大義を掲げる必要があったからであると推測されている[9]。
その後も足利将軍家には多大な援助を続けた。永禄6年(1563年)には足利義輝の相伴衆に任ぜられた。翌永禄7年(1564年)には義輝に毛利氏との和睦の調停を依頼して、北九州の支配権の確立・権益の確保を実現するなど、幕府との関係は密であった[10][11]。
京都の幕府では永禄8年(1565年)に足利義輝が家臣の謀反により没し、永禄11年(1568年)に弟の足利義昭が新将軍となった。毛利氏は山陰地方の仇敵・尼子氏を滅ぼしたのち、再び北九州へ食指を伸ばすようになり、和睦は反故となった。永禄10年(1567年)、豊前国や筑前国で大友方の国人が毛利元就と内通して蜂起し、これに大友氏重臣の高橋鑑種も加わるという事態が起こったが、宗麟は立花道雪らに命じてこれを平定させた。この毛利氏との戦闘の時期に宗麟は、キリスト教宣教師に鉄砲に用いる火薬の原料である硝石の輸入を要請している。この際に「自分はキリスト教を保護する者であり、毛利氏はキリスト教を弾圧する者である。これを打ち破るために大友氏には良質の硝石を、毛利氏には硝石を輸入させないように」との手紙を出している。永禄12年(1569年)、肥前国で勢力を拡大しつつあった龍造寺隆信を制するため、自ら軍勢を率いて筑後・肥前へ討伐に向かうが、毛利氏が筑前国に侵攻してきたため、慌てて撤退する。
義鎮は多々良浜の戦いで毛利軍に打撃を与えた一方で、重臣の吉岡長増の進言を受けて大内氏の一族である大内輝弘に水軍衆の若林鎮興を付け周防国に上陸させて毛利氏の後方を脅かし、元就を九州から撤退へと追い込んだ(大内輝弘の乱)。
経済面では支配下の博多や堺の豪商のみならず、豊後府内の豪商仲屋顕通・仲屋宗越父子を厚遇して御用商人化し、秤と分銅の衡量権益を授け、対外貿易の実務も担わせた。仲屋宗越は臼杵城下の唐人町懸ノ町に広大な屋敷地の保有を認められ、のちには豊臣秀吉からも厚遇されて京都方広寺大仏殿(京の大仏)造立時に奔走することになる。
義鎮は日本の戦国大名では最も早い天正年間に、カンボジア国王との善隣外交関係の締結に成功している。義鎮がカンボジアに派遣した交易船は、帰路の天正元年(1573年)8月に銀子・鹿皮等を積んで薩摩国の港(阿久根港)に大風避難寄港し、以降消息を絶った。また、カンボジア国王が天正7年(1579年)に義鎮に向けて派遣した交易船には、鏡匠・象簡・象が乗り込み、銅銃・蜂蝋が積まれていたが、前年耳川の戦いで優位に立った島津義久による経済封鎖によって抑留された。
衰退
[編集]元亀元年(1570年)、再度肥前国に侵攻したが龍造寺隆信に今山の戦いで敗れ、弟の親貞が戦死した。ただしこの勝敗は大友・龍造寺氏双方にとって局地的な事象でしかなく、大友氏の肥前支配はこの時点では維持されていた[12]。その後大友氏は肥前国や筑後国の反龍造寺勢力を扇動し支援することで対抗したが、龍造寺氏の勢力の膨張を防ぐことはできなかった。
元亀4年(1574年)、京都では織田信長が将軍・足利義昭との抗争に勝利し権力を確立し、義昭は京を追放され、天正4年(1576年)に山陽地方に下り毛利氏の庇護を受けた[注釈 6]。
天正4年(1576年)正月から2月18日以前の時期、家督を長男の義統に譲って隠居した[13]。家督は相続されたが、天正5年頃までは宗麟と義統との共同統治が行われていたことが確認されている[14]。
下記の日向国出陣直前の天正6年(1578年)7月、宗麟は宣教師のフランシスコ・カブラルから洗礼を受け、洗礼名を「ドン・フランシスコ」と名乗り、正式にキリスト教徒となった。以後、家臣へ宛てた書状の中などでは自身の署名として「府蘭」を用いている(本項内では以降も、著名な名乗りである「宗麟」で統一する)。
改宗の理由として、宗麟の関心は信仰の内容ではなくかなりの程度、信者となることでもたらされる現世利益、すなわち実収入にあったと考えられている。またそれが宗麟個人のみならず、大友家中の人々にキリシタン信仰を広める上で有効な面もあったとされている[9]。
天正5年(1577年)、薩摩国の島津義久が日向国に侵攻を開始し、日向の大名の伊東義祐は姻戚関係にあった大友氏を頼り、豊後へ逃れてきた。日向北部の縣の松尾城主である土持親成は宗麟に臣従していたが、これを機に島津へ寝返ったため天正6年(1578年)1月にこれを攻めて鎮圧[15]。同年9月、大友勢は伊東の旧領回復を期して出兵[15]。宗麟も出陣したが耳川の戦いで大友氏は大敗し、多くの重臣を失った[注釈 7]。
耳川の戦いが起こる切っ掛けとなった島津軍の日向国北上の理由として、京都で織田信長に敗れ毛利輝元の下に亡命していた足利義昭の影響を指摘する意見がある。将軍・義昭は毛利氏が織田氏攻めのための上洛戦に踏み切らないのは、大友宗麟が毛利氏の背後を脅かしているからだと考え、島津氏をや龍造寺氏、四国の長宗我部氏らに工作を行い、大友氏を攻めさせようとした、とされる。義昭は宗麟を、将軍の上洛を妨害する「六ヶ国之凶徒」[16]と糾弾したため、先に大友氏が室町幕府の将軍に任命された六ヶ国守護としての権威が消失し、周辺の大小名に対する支配の正当性を失った形となった。一方で宗麟は織田政権に接近して、この苦境を打破しようとした[17]。織田信長は大友義統に対し、六ヶ国のみならず周防・長門(毛利が大内から奪っていた国)の領有まで許可した。
天正7年(1579年)頃からは、蒲池氏・草野氏・黒木氏などの筑後国の諸勢力が大友氏の影響下から離れていった。家中では、先代の宗麟と当主の義統による二元政治の確執から、双方の対立が深まった。
衰退から最期へ
[編集]耳川の戦い後、大友領内の各地で国人の反乱が相次ぎ、さらに島津義久や龍造寺隆信、秋月種実らの勢力拡大もあり、大友氏の領土は侵食されていった。宗麟は本州で大勢力となっていた織田信長に依頼し、島津氏との和睦を斡旋してもらった。大友氏は信長の中国地方侵攻すなわち毛利氏との戦いに協力することなどを約束していたが、天正10年(1582年)の本能寺の変により信長が死んだことにより、これらは立ち消えとなった[18]。
天正12年(1584年)の沖田畷の戦いにて、龍造寺隆信が島津義久の弟の島津家久に敗北を喫し戦死すると、大友氏は立花道雪に命じて筑後国侵攻を行い、筑後国の大半を奪回した。
しかし、天正13年(1585年)に道雪が病死し同地での求心力を失った。これを好機と見た島津義久は北上を始めた。家臣の高橋紹運・立花宗茂(道雪養子)父子の奮戦は島津軍の侵攻を鈍らせたが(岩屋城の戦い)、もはや大友氏単独では島津氏の勢いには対抗出来なくなっていた。
このため天正14年(1586年)、宗麟は上方へ向かい、中央で統一政策を進める豊臣秀吉に大坂城で謁見することに成功した。宗麟は大友氏が豊臣傘下になることと引き換えに、軍事的支援を懇願した。島津義久はその後も大友領へ侵攻した(豊薩合戦)。大友氏救援に赴いた仙石秀久や十河存保・長宗我部元親らの四国勢を中心とした豊臣軍の先発隊が豊後に到着したが、この先発隊と大友氏は「豊後国にて防備を固めよ」という秀吉の命令を順守せず、攻められていた大友氏の鶴ヶ城の救援に赴き、同年12月12日に独断で会戦(戸次川の戦い)したが、島津家久軍により大友氏軍と豊臣軍先発隊は壊滅敗走させられた。島津軍はさらに大友氏の本拠地である豊後府内を攻略した。この時、丹生島城(のちの臼杵城)に籠城していた宗麟は大砲・国崩し(フランキ砲)を使って丹生島城を守った[注釈 8][注釈 9][注釈 10]。豊後国内で栂牟礼城の佐伯惟定、岡城の志賀親次、鶴崎城の妙林尼、筑前国の立花山城の立花宗茂(立花山城の戦い)など各臣は自らの居城で奮闘した。しかし、個々の拠点をかろうじて防衛しているだけであり、豊後は島津氏に蹂躙され、大友家は滅亡寸前にまで追い詰められていた。
天正15年(1587年)、豊前国小倉に先着していた毛利輝元、宇喜多秀家、宮部継潤らの軍勢と豊臣秀長の軍勢が合流し、さらに豊臣秀吉軍の本隊が九州に入り、総勢10万の軍勢が九州に上陸した(九州平定)。
同年4月17日、日向国根白坂で行なわれた豊臣秀吉軍と島津義久軍による合戦(根白坂の戦い)においては、砦の守将の宮部継潤らを中心にした1万の軍勢が空堀や板塀などを用いて砦を堅守し、これを島津軍は突破できずに戦線は膠着状態に陥っていたが、豊臣秀長麾下の藤堂高虎の500名と宇喜多秀家麾下の戸川達安の手勢らが宮部を救援に向かい島津軍と衝突し、島津軍は島津忠隣や猿渡信光が戦死するなど甚大な損害を出して敗走した。この戦果は、戸次川の戦いの敗北により失った豊臣氏の権威を回復し、秀吉による九州平定を盤石なものにした上で、窮地に陥っている大友氏を救った戦いとなった。大友氏領内の島津軍は撤退した。
5月13日、秀吉は秀長へ全11ヶ条の条々を下した。(『大友家文書録』)
- 大隅・日向両国の人質解放を命令
- 戸次川の戦いでの長宗我部信親の戦死を悼み、大隅国を長宗我部元親へ下す[注釈 11]
- 島津義久降伏の様子
- 毛利輝元、小早川隆景、吉川元長を薩摩国に移陣させる
- 志賀親次の忠節に報い大友宗麟の判断で日向国内に城を与える
- 大友義統と談議し豊後国内の不要な城の破却命令
- 日向国における大友宗麟の知行取分は宗麟の覚悟次第とする
- 宇喜多秀家、宮部継潤、蜂須賀家政、尾藤知宣、黒田孝高に日向国、大隅国、豊後国の城普請および城割り
- 豊前国の不要な城の破却と豊後・豊前国間に一城構築すべきこと
- 越権行為は成敗すること
などの内容であるが、これにより、この時点では豊後・日向二国が義統と宗麟にそれぞれ与えられ、豊臣氏の支配体制の内ではあるが、両国が大友氏の采配の下となる様子が窺える。
宗麟は戦局が一気に逆転していく中で病気に倒れ、島津義久の降伏直前、5月23日に豊後国津久見で病死した。58歳。死因はチフスが有力とされている。
九州平定後、秀吉の命令で義統は豊後一国を安堵された。秀吉は宗麟に日向国を与えようとしていたが、統治意欲を失っていた宗麟はこれを辞退した、もしくは直前に死去した、とされている。
人物・逸話
[編集]人物
[編集]文化人としての活動は活発で書画、茶道、能、蹴鞠などの諸芸に通じ、古くから中央の文化人を招くなどしている。
- 永禄12年(1569年)狩野松栄を、元亀2年(1571年)には狩野永徳を豊後に呼び寄せ、障壁画を制作させている。
- 幼時より飛鳥井雅綱を師範とし蹴鞠の伝授を受けており、息子の義統にも習わせている。時の将軍・足利義輝も宗麟の蹴鞠好きを知り、蹴鞠の際に着用する専用の衣服などを送っている。
- 収集癖も持ち合わせていたようで、隠居後も博多の商人を通じて書画や茶器を大量に購入、収集している。さらに楢柴肩衝、初花肩衝と共に天下三肩衝といわれる新田肩衝も所有していた。この収集癖が財政を圧迫するので自重するようにとの義統の書状も残っている。
天正6年(1578年)、ルイス・フロイスが臼杵からポルトガルのイエズス会に送った同年9月16日付け書簡に彼についての記述があった。
- 豊後の王は今四八、九歳なるが、日本に在る王侯中最も思慮あり、聡明叡智の人として知られたり。始め一、二箇国(豊後・豊前)を有するに過ぎざりしが、今五、六箇国(豊前・豊後・肥後・筑前・筑後・日向)を領し、その保有に心を尽し、ほとんど戦うことなくしてこれを領有し、また統治せり。
キリスト教と信仰、南蛮文化
[編集]- キリシタン大名としても知られる宗麟だが、天文20年(1551年)に豊後へ布教のためにやってきたイエズス会宣教師・フランシスコ・ザビエルを引見したことがキリスト教との出会いであった。27年後の天正6年(1578年)7月にキリスト教の洗礼を受け、ポルトガル国王に親書を持たせた家臣を派遣している。領内での布教活動を保護し、南蛮貿易を行う。また博多商人の島井宗室や神屋宗湛らと交友し、日明貿易や日朝貿易も行った。しかし、実際に明国や朝鮮などとの貿易が利益をもたらしていたのは15世紀後半辺りまでで、三浦の乱を契機に少なくとも明・朝鮮との貿易関係は衰退し、名義上大友氏の看板を利用した対馬国の国人や博多の豪商らに実利は移ってしまった。また輸入品は食料や武器など経済・軍事的に影響する物は少なく、多くはいわゆる「奢侈品」であったとされ、それ程実質的な利益は上げていなかったことが外山幹夫の著作などで指摘されている。むしろ宗麟時代は有力家臣へ恩賞として与える領土が不足し、寺社領の没収や領地の代わりに杏葉紋(大友氏の使用した家紋)の使用権を与えるなどして代用するなど経済状況は決して良くはなかった。
- 宗麟は、キリスト教に好意を持ちながらも、府内最大の寺院寺万寿寺を保護し、京都大徳寺瑞峰院の名僧怡雲(いうん)禅師を招いて禅を修め、1562年(永禄5)に入道して瑞峰宗麟と称した。こうした風貌は宣教師を当惑させたが、宗麟がイエズス会を保護することに変わりはなかった。
- キリシタンとなったのは従来の仏教を見限りキリスト教に帰依したためであるが、キリシタンになったことが大友家臣団の離反を招き、晩年に国人の反乱多発という形で表面化することとなる。また、宗麟はキリスト教信仰のために、神社仏閣を徹底的に破壊する(「住吉大明神破却」「彦山焼き討ち」「万寿炎上」など)、金曜日・土曜日には断食をする、それまで家に伝わっていただるまをも破壊する等の破壊行為も行なっている。宗麟がキリスト教のために徹底した神社仏閣破の破壊解体を行ったのは、主にキリスト教国建設を夢見たとされる侵略先の日向においてであり、本拠である豊後や筑後で行われた神社仏閣の徹底的な破壊は次期当主義統が行ったもので、宗麟が主導したという資料は見当たらない。これは当然に宗教心が発した行動であり、仏僧の奢侈を嫌い寺社領を取り上げる政治的意図があったにせよ、単に寺社を破壊するだけでなく仏像や経典の類まで徹底して破壊されている。
- ただし、上記の破壊行為については、熱心な仏教信仰者でも災害や願いの不成就などを理由に破壊を伴った神仏唾棄が行われていたこと、宗麟と同じくキリシタン大名として知られていた大村純忠がキリスト教の洗礼後に真言密教などに深くはまっていたことなど当時の日本人の多くは仏教とキリスト教を対立するとは考えておらず兼宗可能とみていたとする指摘[20]から、単純に仏教とキリスト教の対立のみで捉えられない側面があるとされている。
- 若い頃、南蛮人が持ってきた鉄砲が試し撃ちの際に暴発して弟の晴英が手に怪我をしたが、その時に西洋医学による応急処置を見ている。また、弘治3年(1557年)に府内(現在の大分県庁舎本館のある場所)で日本初の西洋外科手術をポルトガル人医師1名(ルイス・アルメイダ)と、助手に日本人医師2名の計3名で行わせた。当時の豊後国はらい病が風土病になっており、らい病の手術と大分県史に記されている。日本人医師2名は杏葉紋・苗字・太刀を宗麟から賜っている。現在、大分県庁舎本館前には「日本における西洋外科手術発祥の地」の記念碑が立っている。加えて宗麟は領内に、宣教師が伝えた西洋医学の診療所を作り、領民は無料で診察を受けることができた。
- 臼杵城に篭城する際に、宗麟はキリスト教徒もそうでない者も城に避難させ、自ら握り飯等を配った。宣教師はそうした行いを記録にまとめ、その中で宗麟のことは「王」と記している。キリスト教には「汝、殺すなかれ」という教えがあるが、宣教師はキリスト教信仰に基づく宗麟の質問に対して、戦の上で殺生は何の問題も無いと返答している。
- 天正10年(1582年)に九州のキリシタン大名らがローマへ派遣した天正遣欧少年使節では、伊東マンショを名代として派遣している。ただし、この件を宗麟本人が関知していなかった可能性が高いという説もある。詳しくは伊東マンショの項を参照。
- ニホンカボチャは天文年間(1532年-1555年)に豊後国(現在の大分県)にポルトガル人がカンボジアから持ち込んで宗麟に献上したという説が有力である[21]。このカボチャは「宗麟かぼちゃ」と名づけられ大分県などで伝統的に栽培されている[22]。
政道十九条
[編集]「大友興廃記」によると、宗麟は家督を継いで3年あまり後、「大友家政道条々」という19箇条よりなる分国法を制定発布したとしている。これは「政道十九条」と呼ばれている。
それまでの大友氏の分国法としては大友義長が制定した「大友義長条々」、大友義鑑が制定した「新大友義長条々」がある。この「政道十九条」には重臣宛に発した私信があり、分国法と断定するには問題があるともされている。また、梅木俊次らはこれを確かに宗麟の制定したものと主張しているが、外山幹夫らは偽作だと主張している。
墓所
[編集]墓所は大分県津久見市内と、京都市北区の龍寶山大徳寺の塔頭寺院である瑞峯院にある。津久見市上宮本町の響流山長泉寺に位牌がある。肖像画は瑞峯院に所蔵されている。宗麟の死の直後にキリスト教式の葬儀が行われ、墓は自邸に設けられたが、後に義統が府内の大知寺で改めて仏式の葬儀を行い、墓地も仏式のものに改められた。その後、義統が所領没収されるなどして大友氏が衰退したこともあり、宗麟の墓所は荒廃していたが、寛政年間(1789 - 1801年)に宗麟の家臣の末裔である臼杵城豊が自費で改葬した。津久見市内の現在の墓所は昭和52年(1977年)に当時の大分市長・上田保によって、新たにキリスト教式の墓として、従来の場所から移されたものである。
家族
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など7人の側室が居た。 |
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家臣・偏諱を受けた人物
[編集]以下、義鎮から偏諱を賜った人物、義鎮期の主な家臣を掲載する。太字の義、鎮、宗、麟の字を含む人物は義鎮から偏諱を賜った人物である[注釈 17]。( )内に血縁関係や別名、通称、役職などを掲載しているが、長文になる場合は脚注に掲載している。
近親者およびその一族
[編集]家臣(大友氏庶流)
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家臣(国衆・臣従者・陪臣)
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上記以外
[編集]上記以外の近隣勢力および義鎮亡き後に「鎮」の字を祖先から取って用いた人物を以下に示す。
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大友義鎮を主題とする作品
[編集]- 銅像・レリーフ
- 日名子実三『大友宗麟像』(1937年、1982年復元、大分県臼杵市臼杵公園)
- 日名子実三『大友宗麟像』(1937年、1958年長谷秀雄再現、大分県大分市神宮寺浦公園)
- 長谷秀雄『大友宗麟公像』(1969年、大分県大分市南蛮BVNGO交流館)
- 富永直樹『大友宗麟公像』(1982年、大分県大分市大分駅前広場、大分県大分市コンパルホール)
- 高野佳昌『大友宗麟公之像』(1986年、大分県津久見市津久見駅前)
- 小説
- 白石一郎『火炎城』(1978年、講談社、ISBN 978-4061314443)
- 遠藤周作『王の挽歌』(1992年、新潮社、上・ISBN 978-4101123332、下・ISBN 978-4101123349)
- 赤瀬川隼『王国燃ゆ 小説大友宗麟』(1999年、学陽書房、ISBN 978-4313750890)
- 風早恵介『大友宗麟―道を求め続けた男』(PHP文庫)
- 高橋直樹『大友二階崩れ』(文藝春秋)・『大友二階崩れ』収録)※文庫版のタイトルは「戦国繚乱」(文春文庫)
- 海音寺潮五郎『大友宗麟』(文春文庫)・『武将列伝』収録)
- 赤神諒『大友二階崩れ』(2018年2月21日、日本経済新聞出版社)ISBN 978-4532171469
- 赤神諒『大友の聖将』(2018年7月14日、角川春樹事務所)ISBN 978-4758413268
- 赤神諒『大友落月記』(2018年9月11日、日本経済新聞出版社)ISBN 978-4532171476(『大友二階崩れ』の続編)
- 映画
- テレビドラマ
- 『もう一人の不龍獅子虎 大友宗麟』(1978年、NHK)主演:高橋幸治
- 『大友宗麟〜心の王国を求めて』(2004年1月4日放送、NHK正月時代劇)原作:遠藤周作(『王の挽歌』)、脚本:古田求、演出:望月良雄、主演:松平健
- 絵画
- 「日本の王に拝謁する聖フランシスコ・ザビエル」 - 17世紀にヨーロッパで活動した画家アンソニー・ヴァン・ダイクが、フランシスコ・ザビエルが大友館で宗麟に謁見する姿を想像して描いたとされる作品。ドイツ・ポンマースフェルデンにあるヴァイセンシュタイン城所蔵[28][29]。
- 楽曲
- 漫画
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 親貞に関しては菊池重治の子ともいわれる。
- ^ 宗麟は今山・耳川の戦いで敗北し、戦略家としては二流と見られている。しかし、政略においては、毛利元就ですら手玉に取るほどの手腕を見せている。既に有名無実となっていた室町幕府の権威を利用し、莫大な献上金を差し出して守護職・九州探題職を得、九州支配の正当化を確立している。さらに天正9年(1581年)には当時の天下人・織田信長と誼を通じ、それを後ろ盾にして一時的に義久と和睦するなど外交手腕には特に秀でていた。
- ^ 発給文書が非常に多い人物としても知られる。現存する書状だけでも1,000通を越えており、家臣団の統率や中央政権との繋がり、果ては諸外国との通信など義鎮が非常に外交に長けた人物であったことを裏づけている。
- ^ のちに側室となる一萬田夫人や一萬田鑑実の父。
- ^ 通説では、永禄5年(1562年)もしくは同6年(1563年)に臼杵の丹生島城に移ったとされているが、八木直樹は姓氏対立事件を機に義鎮が丹生島に移ったことに触れた弘治3年(1557年10月29日)のガスパル・ヴィレラの書簡(『耶蘇会士日本通信』)の記事以降の大友氏の関係文書を分析した結果、義鎮が府内ではなく臼杵において政務を行っていたと指摘し、さらなる史料不足から具体的年代は断定できないものの、弘治2年前後から大友氏の改易まで、天正7年(1579年)の田原親貫の反乱対応のために大友義統が2年ほど府内に移った(この期間も義鎮は臼杵か津久見に滞在していた)以外は一貫して臼杵に大友氏の本拠が置かれていたとしている[6]。
- ^ 翌1575年に信長は従三位権大納言となり足利義昭と並び、さらに過去に義昭が望んでいた右近衛大将を兼ねることで上位に立っている。信長子息の信忠は1576年に出羽介および秋田城介(鎮狄将軍と同等)となった。
- ^ 耳川の戦いは、「宗麟主導の下に、日向国にキリスト教王国建設を夢見て行なった無謀な戦争」とされることが多い。 しかし、天正5年(1577年)から天正6年(1578年)にかけて宗麟は領国経営に関する文書を発行していない。さらに敗北後の事態収拾に当主だった義統ではなく隠居していた宗麟が”家臣団の要請を受けて”乗り出していることから、耳川の戦いは先代宗麟ではなく、当主の義統主導によるものだった、とも言われている。合戦の敗因については「宗麟の姻戚であった総大将の田原親賢が、田北鎮周などの他重臣達の反発を招いた結果、大友氏内の統率が取れていなかった」とする説や、「親賢はキリスト教を嫌悪していたため、信徒や宣教師の支援が得られなかったことが原因」とする説もある。
- ^ 日本で初めて大砲を使ったのは、宗麟であったとされる。
- ^ この大砲は大友氏改易後も、江戸時代を通じて臼杵城本丸に配備されていた。
- ^ 同城に宗麟と共に立て籠もっていた家臣の志賀親守は、実は既に島津氏に内通していた。島津軍は丹生島城攻略を重視せず、本軍は府内に向けて進軍している。
- ^ 長宗我部氏はこれを固辞した。
- ^ 絹本著色、重要美術品。怡雲宗悦が天正15年(1587年)9月の年期を記した賛をもつ。描法から狩野派の絵師の作だと推定される[19]。
- ^ 「於西御前(阿西御前)・桑姬」は清田鎮忠夫人「ジュスタ」(大友宗麟と奈多夫人の長女)を指す。『長崎名勝図絵』(1820年頃、饒田喩義編纂)には「阿西御前」とある。読みは「おにしごぜん」。「於西御前」の表記は『志賀家事歴』による[23][24][25]。『大友の末葉・清田一族』によると、ジュスタの墓碑は元「(大分県)清田村民家の後ろ、銀杏大木を印」として在った。のち、大分郡松岡村松岡山長興寺に移され、追って石塔が建てられ、「清芳院殿月峯自圓大姉」と法号が刻まれた[26]。号は本源院とも。
- ^ 宗麟は、奈多夫人がまだ服部右京亮の妻であった1550年頃に自分の側室にし、服部右京亮の存命中に奈多夫人が宗麟の子供を宿して出産したのがこの娘である。
- ^ 彼女の三女は妹の桂姫の洗礼名と同じ「マセンシア」[23]。
- ^ 『志賀家系図』(長崎歴史文化博物館蔵)によると、林ジュリア(元は吉弘鎮信側室、のちは大友宗麟の継室)と吉弘鎮信の娘・林クインタ(林ジュリアの連れ子として宗麟の養女となる)。
- ^ 義鎮から偏諱を賜った蒲池鎮漣の子孫が代々「鎮」を通字として用いるようになった例など、一部の人物が義鎮亡き後に「鎮」の字を名前に用いているケースもあるが、こちらも別項に掲載する。
- ^ 姓は「うちくが」と読む。この家では元々「鎮」の字が用いられていた[27]ため、義鎮から賜っていない可能性もある。
- ^ 名の読みは「しげたか/しげのり」。河崎鑑実の従兄弟・能堯(よしたか)の子。豊臣秀吉の九州征伐に際して参礼せずに除封処分を受けた。子孫は佐賀藩士として続く。
- ^ 子の鎮直は二階崩れの変前に殺害された小佐井大和守と同一人物とされているが、この当時の大友氏当主は義鑑なので鑑直の間違いではないかと思われる。また、1580年の龍造寺氏との戦いで鑑直が一旦捕虜となったという史実もある。
- ^ 高橋氏、戸次氏時代は統虎(「統」は宗麟の子・義統から賜った字)を名乗る。立花道雪の養子となり鎮虎に改名(父・鎮種または隠居後の宗麟から賜っているものと考えられる)。以後幾度も改名し最終的には宗茂となる。
出典
[編集]- ^ 『大友宗麟』 - コトバンク
- ^ 大濱徹也 (2010年3月9日). “豊後の王フランシスコ大友宗麟”. 日本文教出版. 2020年4月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月11日閲覧。
- ^ 『官報』3439号「授爵,叙任及辞令」1924年2月13日. (1924/2)
- ^ 『立花遺香』 P.107~108
- ^ “大友宗麟”. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. ブリタニカジャパン. 2022年5月11日閲覧。
- ^ 八木直樹「十六世紀後半における豊後府内・臼杵と大友氏―城下町移転に関する再検討―」『ヒストリア』204号、2007年。/所収:八木直樹 編『豊後大友氏』戎光祥出版〈シリーズ・中世西国武士の研究 第二巻〉、2014年。ISBN 978-4-86403-122-6。
- ^ 筑前国守護職補任は、足利義輝御判御教書(大友家文書)(九州国立博物館 2015, p. 29(写真掲載))
- ^ 大覚寺義俊副状(大友家文書)(九州国立博物館 2015, p. 30(写真掲載))
- ^ a b 神田千里「大友宗麟の改宗―その実態と背景―」『東洋大学文学部紀要』第68集史学科篇第40号、2014年。
- ^ 宮本義己「足利将軍義輝の芸・豊和平調停(上)(下)」『政治経済史学』102号・103号、1974年。
- ^ 宮本義己「戦国大名毛利氏の和平政策―芸・雲和平の成立をめぐって―」『日本歴史』367号、1978年。
- ^ 堀本一繁「龍造寺氏の戦国大名化と大友氏肥前支配の消長」『日本歴史』598号、1998年。
- ^ 外山 1975, pp. 143–144.
- ^ 福川一徳 著「大友義統の家督相続をめぐっての一考察」、渡辺澄夫先生古稀記念事業会 編『九州中世社会の研究』1981年。
- ^ a b 吉永正春『九州戦国合戦記(増補改訂版)』、海鳥社、2006年 ISBN 4-87415-586-3 P170.
- ^ 天正6年12月10日付毛利輝元宛島津義久書状(『大日本古文書』島津家文書之三・1423号)
- ^ 伊集守道「天正期島津氏の領国拡大と足利義昭の関係」『九州史学』157号、2010年。/所収:新名一仁 編『薩摩島津氏』戎光祥出版〈シリーズ・中世西国武士の研究 第一巻〉、2014年。ISBN 978-4-86403-103-5。
- ^ 黒嶋敏「島津義久、熱く冷めた信長へのまなざし」『歴史読本』56巻7号、2011年。
- ^ 狩野永徳展図録、京都国立博物館、2007年、264頁
- ^ 稙田誠「戦国時代における神仏唾棄行為について」『中世の寺院焼き討ちと神仏冒涜』、戎光祥出版、2021年 ISBN 9784864033848 P200.
- ^ “大友宗麟とカボチャ渡来について。”. 大分県立図書館. 2015年10月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月11日閲覧。
- ^ “いわき昔野菜図譜 其の参 かぼちゃ” (PDF). いわき市. 2015年11月20日閲覧。
- ^ a b 宮本次人 (2017年12月1日). “「桑姫」再考―その③―”. 花久留守―宮本次人キリシタン史研究ブログ. 2022年5月11日閲覧。
- ^ 宮本次人 (2017年12月2日). “「桑姫」再考―その④―”. 花久留守―宮本次人キリシタン史研究ブログ. 2022年5月11日閲覧。
- ^ 宮本次人 (2017年12月4日). “「桑姫」再考―その⑤―”. 花久留守―宮本次人キリシタン史研究ブログ. 2022年5月11日閲覧。
- ^ 宮本次人 (2017年12月19日). “宗麟の娘ジュスタとマグダレナ清田のこと”. 花久留守―宮本次人キリシタン史研究ブログ. 2022年5月11日閲覧。
- ^ “内空閑鎮房の墓(うちくがしげふさのはか) 山鹿市”. 熊本県庁. 2010年8月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月11日閲覧。
- ^ 木村三郎「ヴァン・ダイク作、通称≪日本の王に拝謁する聖フランシスコ・ザビエル≫について」『大ザビエル展(展覧会カタログ)』1999年、231-236頁。
- ^ “大友宗麟の実像 第5回 ヨーロッパ人から見た宗麟” (PDF). 大分市. 2019年5月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年5月29日閲覧。
参考文献
[編集]- 外山幹夫『大友宗麟』吉川弘文館〈人物叢書〉、1975年。ISBN 978-4642051392。
- ルイス・フロイス『完訳フロイス日本史〈6〉ザビエル来日と初期の布教活動―大友宗麟篇(1)』〈中公文庫〉。
- ルイス・フロイス『完訳フロイス日本史〈7〉宗麟の改宗と島津侵攻―大友宗麟篇(2)』〈中公文庫〉。
- ルイス・フロイス『完訳フロイス日本史〈8〉宗麟の死と嫡子吉統の背教―大友宗麟篇(3)』〈中公文庫〉。
- 芥川竜男『大友宗麟のすべて』新人物往来社、1986年。
- 鹿毛敏夫『アジアン戦国大名大友氏の研究』吉川弘文館、2011年。ISBN 9784642029032。
- 九州国立博物館 編『戦国大名:九州の群雄とアジアの波涛(開館10周年記念特別展)』忘羊社(西日本新聞社)、2015年。ISBN 9784907902087。
- 鹿毛敏夫・坪根伸也編『戦国大名大友氏の館と権力』吉川弘文館、2018年。ISBN 9784642029513。