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内田鎮家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
内田鎮家
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 不明
死没 元和5年(1619年
改名 豊熊(幼名)→鎮家→元叙または玄恕入道(法名)
別名 通称:壱岐
主君 立花道雪宗茂
筑後柳河藩家老
氏族 藤原姓相良氏庶流内田氏
父母 父:内田鎮次(和泉)
兄弟 鎮並鎮家内田鎮資(与兵衛)、杉森鎮之(内蔵丞)
鹿子勘解由
統続(忠右衛門)、連久頼成
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内田 鎮家(うちだ しげいえ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将戸次氏立花氏の家臣。家老職・武者奉行を務めた[1][2][3]

経歴

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相良氏庶流で肥後国山鹿郡内田村(現在の熊本県山鹿市菊鹿町下内田)の日渡城城主・内田氏の子孫にあたる。戸次親家(常陸介)に仕えた内田鎮次(左衛門丞宗高、後に和泉)の次男で分家。戸次氏の家臣であるが、文亀年間以降、大友氏の庇護下にある為に父や兄、甥同様に大友義鎮より偏諱を受ける[4]

また、大友氏の軍師・蒲池宗碩の高弟で、兵法80余巻の相伝を受けていたとも言われている[5]。 道雪、宗茂の元で数々の戦功[注釈 1]を立て、大友義統からも感状をもらった[2][18][19][20]

戸次道雪から長男・統続に家督及び元来の知行65町(石高1500石ほど)の相続及び加増分の次男、三男への分知を許可されて隠居している[20]

天正14年(1586年)に、北上侵攻してきた島津氏の攻撃で岩屋城の落城(岩屋城の戦い)後、続いて立花氏の居城である立花城が包囲された際は、偽りの降伏の使者として島津勢へ乗りこみ、時を稼いだ。

島津氏は重臣を人質に出してまで約束を違えまいと降伏を信じたが、この時間稼ぎが功を奏して、豊臣軍の援軍が到着。これを知ると鎮家は、「今までの話は全て時間稼ぎの為の偽りである。自分の役目は果たしたので斬るがよい」と自ら堂々と謀り事を明らかにしたので、豊臣援軍の到着を知った島津の兵に斬られそうになるが、侵攻軍の総大将・島津忠長によって忠臣として称えられ、馬や脇差まで与えられた上、護衛まで付けられて立花城に送り返されている[20][21][18][22]。のち島津家撤退後の追撃戦や8月25日の高鳥居城攻略でも戦功を挙げた[23]

天正15年(1587年)9月、隠居しながらも肥後国人一揆[24][25]文禄の役慶長の役に参戦し[26]、宗茂が戦略・戦術を練る時に常に兵法による意見を出すという[20]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは柳川の城番を勤め、立花宗茂には長男・統続と三男・頼成が同行しているが、大津城攻めの際に統続が戦死し[27]、頼成も10月20日に八院にて戦死している[28]

立花宗茂が改易され、柳河城が開城した後は、宗茂が熊本藩加藤清正の許に行くのに同行せずに浪人となって筑前国で生き残った次男・連久と共に隠棲。元和5年(1619年)に牢居中に死去。連久が長男・統続の名跡を相続して柳川に再封された宗茂に仕官して柳河藩士となる[29]

脚注

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注釈

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  1. ^ 天正7年(1579年)8月13日-14日第三次生松原の戦い・木付鑑実柑子岳城兵糧救援[6]、天正9年(1581年)頃に行われたとされる立花氏と宗像氏秋月氏連合軍の戦い(小金原の戦い)で、敵将・晴氣次郎を討ち取って、当初劣勢であった立花勢を奮起させ、目覚しい活躍があったとされる[7][8]、天正10年(1582年)2月10日第五次生松原の戦い[9][10][11]、3月16日許斐岳・吉原・八並・西郷表の戦い[12][13][14][15][16]、天正12年(1584年)から天正13年(1585年)9月までの筑後遠征[17]

出典

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  1. ^ 『柳河藩享保八年藩士系図・下』第四分冊 內田 P.275
  2. ^ a b 『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十二節 柳川人物小伝(二)内田元敘 823頁
  3. ^ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(二一) 内田鎮家小傳 P.254頁
  4. ^ 『柳河藩享保八年藩士系図・下』第四分冊 內田 P.363
  5. ^ 『柳川史話』第一卷 人物篇(其の一) 一三、宗茂公の兵法書に就て(衣川卷と師鑑抄)(一)・(二) P.31~33
  6. ^ 『柳河藩享保八年藩士系図・下』第四分冊 內田 前之十四日於生松原合戦之刻、最前被勵粉骨鎗疵刀疵被被数ヵ所高名無比類候、殊郎従従武久弥九郎被鎗疵候忠貞感悦無極候、必於配當砌者顕其志可申候、仍而尖遂言上候条御感幼不可有余儀候、恐々謹言 八月廿六日 道雪公御判 内田壱岐入道殿 P.285
  7. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 三四 大友義統軍忠一見状 天正九年十一月十三日、於山東宗像表合戦之砌、戸次伯耆入道道雪家中之衆、或分捕高名、或被疵戦死之着到、令披見訖、 頸一 晴氣次郎 内田壱岐入道 討之 P.351~357。
  8. ^ 『柳河藩享保八年藩士系図・下』第四分冊 內田 前十三於清水原合戦之刻、別而被砕手晴氣次郎被討捕高名感悦候、殊被官歴々或分捕被疵勵粉骨候条、銘々遣状候為御存知候、仍良従武久弥九郎戦死乍忠節無是非候、彼子孫可被加不便候、必配当之砌一稜可顕志候、恐々謹言 十一月廿四日 統虎公御判 道雪公御判 内田壱岐入道殿 P.286
  9. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.122
  10. ^ 『豊前覚書』(五)立花御籠城の次第 P.92
  11. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十三 小金原合戦之事 P.353
  12. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.122~123
  13. ^ 吉永正春『筑前戦国史』吉原・八並の戦い p.163
  14. ^ 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.47
  15. ^ 『宗像郡誌. 中編 宗像記追考』本書第十六 小金原合戦之事 P.628~629
  16. ^ 『柳河藩享保八年藩士系図・下』第四分冊 內田 前十六境目打廻被申付候哉、敵取出候処被遂一戦、氏貞家中無余儀者共歴々被討捕其外手負ニ被仕付別而被勵粉骨候次第雖不新儀候誠御頼敷感悦無極候、殊入郷以来未余日候結局四五日者曲天氣候条定而普請等可為不調候之処、早々打廻被相催候事無御油断御心懸乍案中祝着候、隨而被申談候衆或分捕或被疵戦死之着到令披見候条銘々以状申候、則可被相付候、同其方被官武久将監被刀疵由候、数度之粉骨感入候、弥可被加不便候、今度御辛労之段何様以時分賀之可申候、恐々謹言 三月十八日 統虎公御判 道雪公御判 内田壱岐入道殿 P.286。 今度西郷表無 所候条、為押可有在郷由申候処、軽々与領掌乍案中祝着候、仍為加恩其方役内於大隈之内五町至西郷五町何茂坪付有別紙事預進候、可有知行候、恐々謹言 三月十八日 統虎公御判 道雪公御判 内田壱岐入道殿 P.287
  17. ^ 『柳河藩享保八年藩士系図・下』第四分冊 內田 去年以来道雪以同陣於在々所々勵軍忠被抽馳走之由候感悦候、必取鎮今度貞心之趣何様一稜可賀申候、恐々謹言 九月六日 義統公御朱印 内田壱岐入道殿 P.288
  18. ^ a b 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(二一) 内田鎮家小傳 P.254~257頁
  19. ^ 『柳河藩享保八年藩士系図・下』第四分冊 內田 今度於在々所々別而御粉骨之次第感心不浅候、必以時分可顕其志候、誠々雖細少分候小嶋之内三町分之事預進候間御知行肝要候、恐々謹言 十二月七日 鑑連公御判 内田壱岐入道殿 P.285
  20. ^ a b c d 『柳河藩享保八年藩士系図・下』第四分冊 內田 P.276
  21. ^ 『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十二節 柳川人物小伝(二)内田元敘 823~824頁
  22. ^ 『橘山遺事』 P.176
  23. ^ 『柳河藩享保八年藩士系図・下』第四分冊 內田 前廿五高鳥居城取崩候之刻、最前別而被砕手被鎗疵数ヵ所候、高名感悦無極候、必以時分一稜可賀之申候、恐々謹言 八月廿七日 統虎公御判 内田壱岐入道殿 P.287
  24. ^ 『立花遺香』 P.85~87
  25. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十九 肥後國所々合戦之事 P.515~519
  26. ^ 『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十二節 柳川人物小伝(二)内田元敘 824頁
  27. ^ 『柳河藩享保八年藩士系図・下』第四分冊 內田 今度大津城之城乗崩之刻、子息監物(統続)事最前取入砕手戦死仕候事忠節無比類不便之至候、其方朦気推察候餘残多候条染筆候、跡目之儀以談合聊不可有相違候、為存知候、恐々謹言 慶長五年九月十三日 親成(宗茂)公御判 内田壱岐入道殿 P.287~288
  28. ^ 『柳河藩享保八年藩士系図・下』第四分冊 內田 P.276~277
  29. ^ 『柳河藩享保八年藩士系図・下』第四分冊 內田 P.276~278

参考文献

[編集]
  • 柳川市史編集委員会編『柳川歴史資料集成第二集 柳河藩享保八年藩士系図・下』 (福岡県柳川市 、1997年3月発行)