内田統続
時代 | 安土桃山時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 慶長5年9月13日(1600年) |
改名 | 宮寿(幼名)→連満→統続 |
別名 | 通称:忠三郎、忠兵衛、忠右衛門、監物 |
主君 | 立花道雪→宗茂 |
藩 | 筑後柳河藩 |
氏族 | 相良氏庶流内田氏 |
父母 | 父:内田鎮家、母:鹿子氏 |
兄弟 | 統続、連久、頼成 |
妻 | 立花鎮実女(のち安東連直に改嫁) |
内田 統続(うちだ むねつぐ)は、安土桃山時代の武将。立花氏の家臣。伏見留守居家老や武者奉行を務めた。初めは戸次鑑連(立花道雪)から偏諱を受け連満(つらみつ/つれみつ)、のち大友義統から偏諱を受け統続と名乗った。
経歴
[編集]年代不詳ながら筑前立花山において鑑連(当時、道雪)より父・内田鎮家の本知65町及び家督相続の許可を受ける。同時に父の代の加増分は弟2名にそれぞれ分知される[1]。天正14年10月28日(1586年)に大友義統より「統続」の名を遣わす書状を送られる。なお、当時の通称は忠三郎であった[2]。
「人と為り磊落不羇戦陣功あり」と伝わる[3]
天正15年(1587年)9月~12月肥後国人一揆討伐[4][5][6][7]、天正16年(1588年)5月27日柳川城黒門の戦い[8][9][10][11][12]に参戦した。
文禄、慶長の分限帳では1500石とされている。碧蹄館の戦いでは十時傳右衛門惟道と共に旗本大先手を勤め、鉄砲隊を率いても槍を提げて奮戦した。十時が戦死すると彼の遺言により、家老兼采配を預かり武者奉行となる[13][14]。
文禄5年(1596年)年、伏見留守居家老となり忠右衛門を称するが、不始末があって馬飼料600石に減俸の上、蒲池村に蟄居を命じられ、ほどなくして元の石高に復する[15][16]。
慶長5年(1600年)に11人母衣役の一人[17][18]となって関ヶ原の戦いに出陣し、大津城大手の内で戦死する。人々其の壯烈を稱す[19][13][14]。同年9月13日付けで宗茂より父に統続戦死に対する感状が発給された。なお、当時の通称は監物[19]。
統続に嗣子がなく、宗茂が加藤清正の客分になって肥後国に下った際に宗茂に父と弟が同行せずに筑前国に浪居したこともあり、一時内田家は断絶。宗茂が柳川に再封されると弟・連久(つらひさ/つれひさ)が統続の名跡を相続し、150石で再興される。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 『柳河藩享保八年藩士系図・下』第四分冊 內田 P.276
- ^ 『柳河藩享保八年藩士系図・下』第四分冊 內田 道雪事去年以来至筑後表聢被遂在陣於在々所々軍忠之次第無比類候、然処去秋死去之段誠絶言語候、其方心底察入候、弥統虎江別而可励貞心事可為喜悦候、必取鎮此節之忠賞不可有余儀候、仍一字之事統續遣之候、恐々謹言 十月廿八日 義統公御判 内田忠三郎殿 P.288
- ^ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(三) 内田統続小傳 P.233頁
- ^ 『立花遺香』 P.87
- ^ 『長編歴史物語戦国武将シリーズ(1)立花宗茂』三十八 肥後一揆 起る P.108~110頁、三十九 統虎 平山城を救援す P.110~113頁、四十 統虎 有動氏を破る P.114~118頁
- ^ 中野等 『立花宗茂』P.52~54
- ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十九 肥後國所々合戦之事 P.515~519
- ^ 中野等 『立花宗茂』P.55~56
- ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)21小野文書 八二 軍勢注文写 天正十五年五月廿七日肥後國住人隈部筑後守親永、柳川黒御門前にて御成敗之節出合申候御人数之覚 P.99~100頁
御人数引廻 由布壱岐守惟次
十時摂津守連貞、十時勘解由惟元、十時傳右衛門惟道、池邊龍右衛門永晟、池邊彦左衛門貞政、安東五郎右衛門範久、安東善右衛門常久、石松安兵衛政之、原尻宮内鎮清、新田掃部助鎮実、内田忠右衛門統続、森下内匠規寬
十貳人外ニ掛通り 森又右衛門信清
跡押 小野和泉守鎮幸 - ^ 『長編歴史物語戦国武将シリーズ(1)立花宗茂』四十四 黒門の戦い P.126~128頁
- ^ 『柳河戦死者名譽錄』(三四)筑後柳河黑門前 天正十六年五月廿七日 P.18頁
- ^ 『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.102~105頁。
- ^ a b 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(三) 内田統続小傳 P.233~234頁
- ^ a b 『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十二節 柳川人物小伝(二)内田忠兵衛 824~825頁
- ^ 『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十二節 柳川人物小伝(二)内田忠兵衛 825頁
- ^ 『立花遺香』 P.151
- ^ “『立花家旧記』”. 2022年7月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月9日閲覧。
- ^ 『柳川藩叢書』第一集 補遺(七三)母衣大将并使番 203~204頁
- ^ a b 『立花遺香』 P.106