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大友義親

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
大友義親
時代 江戸時代前期
生誕 文禄元年(1593年[1]
または慶長5年(1597年[2]
死没 元和5年8月18日1619年9月25日
改名 龍丸(幼名)、義親
別名 通称:長五郎
戒名 久山玄昌
官位 右兵衛督
幕府 江戸幕府旗本
主君 徳川秀忠
氏族 大友氏
父母 父:大友義乗
母:高橋紹運の娘退清院[4]立花宗茂の姉)
兄弟 [通説]義政(貞勝)、義親、女(上杉長員室)、女(畠山親元室)
[異説]義乗、政鎮 (正照)貞勝義親[5][6]
今川範以の娘
吉田縫殿助(熊本藩士)
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大友 義親(おおとも よしちか)は、江戸時代旗本大友氏24代当主。

略歴

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寛政重修諸家譜』においては大友義乗の次男、母は高橋紹運の娘とする(群書系図部集の『大友系図』においては五男とあり、兄貞勝と同腹で、母は立花宗茂の娘とする[3][5]が、父については大友義統あるいは義乗のどちらとも解釈できる表記になっており[7]、異説が複数ある[6])。


義乗の母は吉弘鑑理の娘の菊姫大友義乗の次男として誕生し後に義乗の後を継承し3,300石の所領を有する江戸幕府の上級旗本(のちに高家)として徳川将軍家に仕えた。妻は今川範以(旧・駿河遠江守護今川氏真の嫡男)の娘。

義弟に高家旗本今川直房がいる。おなじく高家吉良義弥とも姻戚関係にあった。

義政が早世したため、義乗の死後家督を相続して幕府に仕えたが、その7年後に死去。享年23[2]または27[1]

嗣子が無かったため大友家(嫡流)は断絶した。

断絶後

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しかし、大友義統の娘佐古の局東福門院女官)と、義統の側室だった伊藤甲斐守女の尽力により、小倉藩細川氏家臣松野正照大友義統の庶子で松野親盛の養子)の三男・鶴千代が佐古の局の養子となり、大友氏を高家として再興させ、およそ半減となる扶持1,500石を与えられた。

脚注

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  1. ^ a b 『寛政重修諸家譜』による。
  2. ^ a b 群書系図部集『大友系図』による。
  3. ^ a b 国書刊行会 編『国立国会図書館デジタルコレクション 系図綜覧. 第二』国書刊行会刊行書、1915年、139頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879314/77 国立国会図書館デジタルコレクション 
  4. ^ 梅月春香禅定尼[3]
  5. ^ a b 塙保己一 1973, p.368
  6. ^ a b 中野等『立花宗茂』(吉川弘文館、2001年)278頁の系図によると、義親は紹運女と義乗の子。中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』424頁の系図によると、義親と貞勝は紹運女の子。
  7. ^ 『群書系図部集』によると、退清院は立花左近の娘で義親の母。同時代には立花左近と称する者は立花鑑載立花宗茂立花忠茂の3名がいるが、貞勝の母を「立花左近統虎女」と、義親を「貞勝弟」していることから、左近は宗茂をさし、貞勝とは同腹という内容である。父については特に記述がなく五男とあるだけで、義乗が父の側室を妻にしたという意味にもとれ、義乗とも義統とも解釈できる。ただし、立花家の系譜によれば宗茂と三人の妻の間でも実女が持っていなく幾人の養女も義統や義乗の室ではない。また、大友・松野・吉弘氏関係略系図によれば義乗の室は紹運女で宗茂の妹・退清院殿梅月春光に当たる人物とされて義政と義親の母と明記し、義政の改名は貞勝と記載されているなので、『群書系図部集』や『系図綜覧』に立花左近統虎の娘という記述は統虎妹の誤記かもしれない。

参考文献

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  • 大分市, 大分市教育会 編『国立国会図書館デジタルコレクション 大分市教育史』大分市、1929年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1464296/54 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • 堀田正敦「国立国会図書館デジタルコレクション 大友氏」『寛政重脩諸家譜 第1輯』國民圖書、1922年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082717/359 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • 塙保己一 編「大友系図」『群書系図部集4, 第3巻』八木書店、1973年、368頁。ISBN 4797102764 

関連項目

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