飛鳥井雅綱
表示
時代 | 戦国時代 |
---|---|
生誕 | 長享3年(1489年) |
死没 | 元亀2年(1571年) |
改名 | 雅綱→高雅(号) |
別名 | 雅氏、雅清 |
官位 | 従一位、権大納言 |
主君 | 後奈良天皇 |
氏族 | 飛鳥井家 |
父母 | 父:飛鳥井雅俊、母:八幡検校生清法印の娘 |
兄弟 | 雅綱、行雅 |
妻 | 丹波親康の娘 |
子 |
覚澄、喜雲、雅春、尭慧、宗禎、遠山、水本、雅厳、重茂、経範室、 朽木晴綱正室、目々典侍、女子 |
飛鳥井 雅綱(あすかい まさつな)は、戦国時代の公卿。飛鳥井雅俊の子。官位は従一位・権大納言。飛鳥井家10代当主。
経歴
[編集]明応4年(1495年)、7歳で叙爵し、大永4年(1524年)2月に従三位となった[1]。天文7年(1538年)に権大納言に任じられ、武家伝奏も務めた[2]。
和歌・蹴鞠の宗家[2]で、大永5年(1525年)に伊勢伊豆千代丸(後の北条氏康)[注釈 1]に蹴鞠作法を伝授し[1]、天文2年(1533年)7月、織田信秀に請われて尾張国へ蹴鞠の伝授に出かけ、勝幡城、清州城で蹴鞠会を開催し、多くを門弟にした(『言継卿記』)[4][5]。天文18年(1549年)に再び北条氏康を訪問して息子の西堂丸(後の氏親)・松千代丸(後の氏政)に蹴鞠作法を伝授している[1]。
永禄5年(1562年)に従一位に叙せられ[2]、翌永禄6年(1563年)8月21日に出家した[1]。
系譜
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 市古貞次他『国書人名辞典 1』(岩波書店、1993年) ISBN 978-4-000-80081-5
- 山田康弘「飛鳥井雅綱」『戦国人名辞典』(吉川弘文館 2006年) ISBN 978-4-642-01348-2