竹田津鎮満
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竹田津 鎮満(たけたづ しげみつ、? - 慶長5年(1600年))は、戦国時代の武将[1]。通称は形部少輔、志摩守、一木[1]。大友氏の家臣[1]。豊後国国東郡竹田津城城主[1]。
人物
[編集]永禄12年(1569年)、鎮満は毛利元就との合戦に吉弘鑑理に従って出陣した[1]。天正10年(1582年)に秋月種実・高橋元種が豊前国へ侵入してくると、大友義統の命令で田原親家(大友親家)に従って佐野城(宇佐郡)を陥落させた[1]。その後、岐部一達・臼杵鎮定とともに義統の側近として抜擢された[1]。義統が文禄の役に出陣している間、鎮満は豊後に留まり尊寿院の警護を担当した[1]。義統が敵前逃走を理由に改易され、常陸国水戸へ流されると鎮満もこれに従った[1]。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍に属した義統に従い豊後に下り、石垣原の戦いで討ち死にを遂げた[1]。