佐伯氏 (豊後国)
佐伯氏(さえきし[注釈 1])は、平安時代より豊後国南部の佐伯地方(現:大分県佐伯市)を領した豪族。大神姓臼杵氏の支族で、鎌倉時代より戦国時代に至るまで、主に大友氏に属した。
概要
[編集]今日に伝わる大神姓諸氏に関する系図は内容の差異が大きく、佐伯氏についても諸説紛々としているが、初代・佐伯惟康については、おおむね三重(賀来[注釈 2])惟家の子であるとしている。『鎮西歴代要略』では鎌倉時代に入ってから緒方惟栄の子孫が佐伯氏を称したとしており、この記述が多く引用されているが、年代的に見て著しく整合性を欠く。
『源平盛衰記』によれば、惟康は従兄弟の臼杵惟隆・緒方惟栄が源氏方についたのに対して、一ノ谷の戦いで菊池高直・原田種直・山鹿秀遠らと共に平氏方に属して戦ったという[6]。鎌倉幕府が成立し豊後守護として大友氏が入国すると、佐伯氏は大友氏の傘下に入り、承久の乱では佐伯左近将監(賀来惟綱か)が大友親秀に属して戦い、討死している[7]。
同族の臼杵氏・戸次氏などが養子を送り込まれて次第に大友氏に取り込まれていくなか、佐伯氏は大神姓の血統をつなぎ、建武3年3月28日(1336年5月9日)には北朝方の足利尊氏から南朝方の肝付氏攻めへの軍勢催促状[8]を、貞治4年12月15日(1366年1月26日)には、同じく北朝の後光厳天皇から再び肝付氏討伐の命を、それぞれ直接に下されるなど、独自の勢力を保持し続けていた。そのため、戦国時代に入ると集権化を図る大友氏と衝突し、第10代惟治は謀叛の疑いをかけられて討たれ、第12代惟教は一時伊予国へと亡命した。
第14代惟定は祖父・惟教と父・惟真が耳川の戦いで討死したのち栂牟礼城に侵攻してきた島津家久を撃退し(豊薩合戦)豊臣秀吉から軍功を賞されたが、大友義統が文禄の役で失態を犯し氏が改易されると、豊後を去って豊臣秀保の客将となり、秀保没後はその旧臣藤堂高虎に仕えて伊予国に移った[注釈 3]。
惟定は以後藤堂氏の家臣として伊勢国への転封にも従い、津藩士として明治に至った。また伊予白木城主であった惟定の兄・惟照はそのまま同地に残り、緒方蔵人と名乗って緒方氏を称し[10][11]、弟の佐伯惟寛の系統は備中国足守藩主木下氏に仕えた。惟寛の子孫が緒方洪庵(惟章)である[12]。
系譜
[編集]歴代当主
[編集]- 佐伯惟康
- 佐伯惟朝
- 佐伯惟忠
- 佐伯惟久
- 佐伯惟直(政直)
- 佐伯惟宗
- 佐伯惟仲
- 佐伯惟秀
- 佐伯惟世
- 佐伯惟治
- 佐伯惟常
- 佐伯惟教
- 佐伯惟真
- 佐伯惟定 - 大友氏改易にともない失領。藤堂氏に仕え伊勢国津藩士となる
- 佐伯惟重
- 佐伯惟信 - 藤堂采女元住の次男。惟定の曽孫
- 佐伯惟貞
- 佐伯惟英
- 佐伯惟将 - 藤堂勘解由氏寅の子。
- 佐伯惟徳
- 佐伯惟章 - 梅原頼母武栄の子
- 佐伯惟明 - 楓井亨庵保千の子
- 佐伯惟聡 - 藤堂伊織元永の弟
- 佐伯惟一 - 津藩士時代最後の当主
系図
[編集]- 太字は当主、実線は実子、点線は養子
大神惟基 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
臼杵惟盛 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
臼杵惟衡 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
三重惟家 | 臼杵惟用 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
佐伯惟康1 | 戸次惟澄 | 臼杵惟隆 | 緒方惟栄 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
惟朝2 | 堅田惟定 | 賀来惟頼 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
惟直 | 惟忠3 | 賀来惟綱 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
惟久4 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
惟直 (政直)5 | 惟資 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
惟宗6 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
惟仲7 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
惟秀8 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
惟賢 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
惟世9 | 長田惟長 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
惟安 | 惟信 | 惟治10 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
惟勝 | 惟常11 | 千代鶴丸 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
惟教12 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
惟真13 | 鎮忠 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
[伊予緒方氏] 緒方惟照 | 惟定14 | [備中佐伯氏] 惟寛 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
惟重15 | 弘道 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
惟壽 | 惟信16 | 惟隆 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
惟貞17 | 惟房 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
惟継 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
義継 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
義勝 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
惟因 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
惟正 | [緒方洪庵家] 緒方洪庵 (惟章) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
辰之助 | 千枝 | 惟準 | 惟孝 | 惟直 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
立四郎 | 銈次郎 | 知三郎 | 章 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
準一 | 安雄 | 富雄 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
惟之 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
関連項目
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 豊後佐伯氏の仮名表記については、『国史大辞典』 第6巻 「佐伯氏」の項[1]および『日本人名大事典』 第3巻 「佐伯惟治」の項[2]などに見える通り、他の佐伯氏同様に本来の「さえき」と表記するのが通例だが、一部には大分県佐伯市の現行地名表記(大正5年(1916年)7月制定)と同様に「さいき」と表記する例も見られる(『大分歴史事典[3][4]』)。
- ^ 明治時代に熊谷克己が編纂した『豊前古城誌』によれば、元暦元年(1184年)に源義経の命を受けた緒方惟栄が豊前国下毛郡に犬丸城を築いて一族の賀来(佐伯)惟定を配置した。以後惟定は犬丸を名字とし、犬丸氏は天正16年(1588年)に黒田長政に攻め滅ぼされるまで犬丸城主として存続したという[5]。
- ^ 加藤賢成の説によれば、佐伯惟定は文禄3年(1594年)、戦功により玖珠郡、日田郡の2万石に封ぜられたとも言われる[9]。
出典
[編集]- ^ 国史大辞典編集委員会 1985, p. 236, §. 佐伯氏.
- ^ 平凡社 1979, p. 37, §. 佐伯惟治.
- ^ 大分放送 1990, p. 354, §. 佐伯惟教.
- ^ 大分放送 1990, p. 355, §. 佐伯惟治の乱.
- ^ 熊谷克己『豊前古城誌 上巻 』99頁
- ^ 佐伯市史編さん委員会 1974, p. 101.
- ^ 『佐伯市史』107頁
- ^ 小川 1980, p. 633.
- ^ 加藤賢成『豊後全史』甲斐書店。1893年。
- ^ 田畑 1963, p. 3.
- ^ 松久敬記「緒方酒造」『日本醸造協会誌』第84巻第4号、日本醸造協会、1989年、246-246頁、doi:10.6013/jbrewsocjapan1988.84.246。
- ^ 緒方 1977, p. 4.
参考文献
[編集]- 大分放送大分歴史事典刊行本部 編『大分歴史事典』大分放送、1990年12月。 NCID BN05712718。
- 緒方富雄『緒方洪庵伝』(第二版増補)岩波書店、1977年6月。 NCID BN02026339。
- 小川信『足利一門守護発展史の研究』吉川弘文館、1980年2月。ISBN 4642025529。
- 国史大辞典編集委員会 編「佐伯氏」『国史大辞典』 第6、吉川弘文館、1985年。ISBN 4-642-00506-4。
- 佐伯市史編さん委員会 編『佐伯市史』佐伯市、1974年5月。 NCID BN09471996。
- 田畑忍 著、日本歴史学会 編『児島惟謙』吉川弘文館〈人物叢書 107〉、1963年6月。 NCID BN0284762X。
- 平凡社 編「佐伯惟治」『日本人名大事典』 第3(復刻)、平凡社、1979年7月。ISBN 4582122000。
- 熊谷克己『豊前古城誌 上巻 』(野依書店、1903年)