伊東義賢
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 永禄10年9月14日(1567年10月16日) |
死没 | 文禄2年7月21日(1593年8月17日) |
改名 | 慶龍丸(幼名)→義賢 |
別名 | 通称:三左衛門[1] |
戒名 | 罷山全休 |
霊名 | バルトロメオ |
墓所 | 壱岐島の長徳寺 |
主君 | 伊東祐兵 |
氏族 | 日向伊東氏 |
父母 | 父:伊東義益、母:阿喜多(一条房基娘) |
兄弟 | 義賢、祐勝、伊東祐兵正室 |
妻 | レジナ (大友宗麟娘) |
子 | 女子 |
伊東 義賢(いとう よしかた)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
経歴
[編集]父・伊東義益が永禄12年(1569年)に病死したため、祖父・義祐の手によって養育された[2]。天正5年(1577年)8月に正式に家督相続するが、幼少のため実権は祖父・義祐の元にあった。同年、伊東氏は一時的に衰退した際に日向国から退去し、母の縁者である大友氏に助けられ、その保護を受けたという。この時に大友宗麟の影響を受けてキリシタンになり、天正10年(1582年)に受洗した。天正15年(1587年)、九州平定の後、叔父・伊東祐兵が飫肥城に復帰すると日向国へ帰参した。
文禄の役で伊東軍の一人として朝鮮に出兵するも病気となり、文禄2年(1593年)帰国途中船上で死去した。享年27。史料上では病死とされるが、伊東祐兵との家督争いを防ぐために暗殺されたという説もある[3]。墓所は壱岐島の長徳寺、また飫肥の伊東家墓所内にも墓がある。
「伊東氏大系図」では伊東家臣に嫁いだという娘が一人いたことが伝えられている[4]。