フランクフルト (オーダー)
フランクフルト・アン・デア・オーダー Frankfurt an der Oder | ||
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北緯52度21分0秒 東経14度33分0秒 / 北緯52.35000度 東経14.55000度 | ||
国 | ドイツ | |
州 | ブランデンブルク州 | |
郡 | 郡独立市 | |
政府 | ||
• 市長 | マルチン・パツェルト (CDU) | |
面積 | ||
• 合計 | 147.61 km2 | |
最高標高 | 135 m | |
最低標高 | 19 m | |
人口 (2008年12月31日) | ||
• 合計 | 61,286人 | |
• 密度 | 415人/km2 | |
市外局番 | 0335 | |
自治体コード | 12 0 53 000 | |
ウェブサイト | www.frankfurt-oder.de |
フランクフルト・アン・デア・オーダー/フランクフルト・アン・デル・オーデル(Frankfurt an der Oder、正式名称 Frankfurt (Oder) )は、ポーランドとの国境線(オーデル・ナイセ線)であるオーダー川に面するドイツの都市である。ブランデンブルク州に位置するが、1999年1月1日より郡独立市として、行政上は郡と同格の地位を保つ。人口は61,286人(2008年)。
「アン・デア・オーダー(an der Oder)」は、ヘッセン州のフランクフルト・アム・マイン(マイン河畔のフランクフルト)と区別するために付されている。
対岸のポーランド側には、スウビツェ Słubice、クノヴィツェ Kunowice(クーネルスドルフ Kunersdorf)などがある。
市の紋章
緑の山の上にたつ金のとさかをもつ赤い雄鶏(右向き)。地は白。背景は、左右に塔をもつ市の門(赤)。二つの塔の上に金の紋章旗(金の雄鶏)がたち、門の上にはブランデンブルグの紋章である赤の鷲の紋章がかかげられる。
歴史
フランクフルト周辺にはオーデル川の浅瀬があり、川を渡る地点として重要な土地であった。 13世紀にドイツとバルト海沿岸を結ぶ交易が盛んになり、パリ=アーヘン=ベルリン=ワルシャワ=モスクワを結ぶ交易路と、プラハ=マイセン=クラクフを結ぶ交易路が交わる場所に、交易商人たちが入植地を作ったのがフランクフルト・アン・デア・オーダーの起源である。グロガウ公爵ハインリッヒ1世は市場開設の特許状を1225年に交付、1226年頃に市の最初の教会である聖ニクラウス教会が建設された(現在の名は平和教会)。
1253年には都市として認められ、街はやがて西岸から東岸(現在のスウビツェ)ヘも広がった。また1430年にはハンザ同盟に加わり、短期間その一員となった。
1506年にはヨアヒム1世によりブランデンブルク辺境伯領の主要な大学となるヴィアドリナ大学(Alma Mater Viadrina、オーデル川のラテン名 Viadra にちなむ)が成立したが、1811年に閉鎖されブレスラウ大学と併合し、一部は新設されたベルリン大学に移動した。ヴィアドリナ大学は、1991年に「ヴィアドリナ欧州大学」(Europa-Universität Viadrina)として復活している。
19世紀にはフランクフルト・アン・デア・オーダーはプロイセン王国の中央に位置する重要な交易都市となり、ドイツではライプチヒに次ぐ大きな見本市が開かれるようになった。また1842年にはベルリン - フランクフルト間の鉄道も開通した。
1945年、ベルリンへ向かうソ連軍に対するドイツ軍の要塞となり、フランクフルト・アン・デア・オーダーは戦場となった。戦後のドイツ国境はオーデル・ナイセ線とされたため、フランクフルト市街のうち川の東岸にあったDammvorstadt地区はポーランド領スウビツェ市となった。
現在のフランクフルト・アン・デア・オーダーは対岸のポーランドとの交流や共同プロジェクトが盛んである。ポーランドのEU加盟(2004年)にともないシェンゲン協定がポーランド国境に実施され、国境検問所は撤廃され往来は自由となった。しかしドイツ再統一後この地域の経済は停滞し失業率も高くなっており、1990年に87,000人を数えた人口も大きく減少している。
ゆかりの人物
- カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ:作曲家
- オットー・スコルツェニー:軍人
- ルートヴィヒ・ティーク:作家・詩人・編集者
- ハインリヒ・フォン・クライスト:劇作家、ジャーナリス
- ミヒャエル・プレトリウス:作曲家・オルガニスト・音楽理論家
- レオポルト・フォン・ランケ:歴史家、ドイツ近代史学の確立者
姉妹都市
- ハイルブロン、ドイツ