コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

平知盛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。ボイラーキム2 (会話 | 投稿記録) による 2009年10月14日 (水) 12:10個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

 
平知盛
赤間神宮所蔵 平知盛像
時代 平安時代末期
生誕 仁平2年(1152年
死没 寿永4年3月24日1185年4月25日
別名 新中納言
墓所 赤間神宮、横倉山(高知県高岡郡越知町
官位 蔵人従五位下武蔵守左兵衛権佐
従五位上、正五位下、春宮大進、
中務権大輔右近衛権少将従四位上
左近衛権中将、正四位下従三位
丹波権守、春宮権大夫、右兵衛督、
正三位、左兵衛督、新院別当、
御厩別当、参議権中納言従二位
主君 二条天皇六条天皇高倉天皇
安徳天皇および後白河院
氏族 桓武平氏維衡
父母 平清盛平時子
兄弟 重盛基盛宗盛知盛重衡徳子
盛子寛子知度清房
正室:治部卿局
知章知忠知宗、娘(藤原範茂室)
テンプレートを表示

平 知盛(たいら の とももり)は、平安時代末期の武将平清盛の四男。母は平時子。同母兄弟に平宗盛平重衡建礼門院がいる。官位従二位行権中納言。世に新中納言と称された。

生涯

平氏の全盛期に清盛の継室時子を母として生まれ、わずか8歳で従五位下となり、その後も栄進していく。知盛は武蔵国の国司・知行国主として、同国から多数の平氏家人を獲得した。武蔵は源氏の勢力が強い地域であり、知盛の武将としての才能・人間的魅力が大きく作用したと思われる。兄の重盛・宗盛は後白河院に対して優柔不断であったため、清盛は知盛に期待をかけたらしく「入道相国最愛の息子」(『玉葉』安元2年12月5日条)と呼ばれた。治承4年(1180年)12月、美濃近江で源氏が叛乱を起こした時には総大将として鎮圧にあたった。知盛はその後、清盛の命令で東国追討も命じられたが、この時に病に倒れて京都に戻ることを余儀なくされた。

治承5年(1181年)閏2月4日、清盛が死去する。清盛の後は同母兄の宗盛が継いだ。知盛は、同母弟の重衡とともに宗盛を補佐した。同年10月の平氏遠征軍の編成は、北陸道は知度・清房(宗盛の異母弟)・重衡・資盛、東海道・東山道は維盛・清経(重盛の子)、熊野は頼盛の子息2名、最も重要な洛中守護は宗盛・教盛・経盛・頼盛・知盛が担当した(『玉葉』10月10日条)。この時、宗盛とともに洛中に留まった者が政権中枢にあったと考えられる。寿永2年(1183年)2月、宗盛が内大臣を辞任する際、宗盛のもとに知盛・重衡・頼盛・時忠・親宗が集まっている(『吉記』2月27日条)。知盛が、平氏一門において中枢を担っていたことがうかがえる。

寿永2年(1183年)、倶利伽羅峠の戦いで平氏軍が壊滅すると、知盛は宗盛とともに都落ちを決める。翌寿永3年(1184年)2月7日、一ノ谷の戦いで大敗して長男の知章を失った。元暦2年(1185年)3月24日、壇ノ浦の合戦で平氏滅亡の様を見届けた知盛は、海へ身を投げ自害した。享年34。

自害したという一説もあるが  事実は[要出典]エラー: タグの中に無用な文字が含まれていないか、{{要出典範囲}}と{{要出典}}を間違えていないかを確認してください。貼り付け年月は「date=yyyy年m月」、チップテキストに表示する文字列は「title=文字列」と指定してください。壇ノ浦の戦いの後 今の三重県伊勢市に逃げ延び 矢持という山奥の洞窟で身を隠した。 今では知盛寺 久昌寺としてその名残が残る。 寺には家系図も残され 知盛の直系子孫まで書かれている 現在も直系子孫は健在で 現在およそ40代目と言われている。 なお、平氏滅亡後に反乱を起こす平知忠は、知盛の次男である。

碇知盛

ファイル:Tairano.tomomori.JPG
みもすそ川公園の平知盛像

自害にあたり、知盛は碇を担いだとも、鎧を二枚着てそれを錘にし、「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」と言い残して入水したとも言われている。共に入水後遺体となるか、あるいは生きたまま浮かび上がって晒し物になるなどの辱めを受けるのを避ける心得である。

これに想を得た歌舞伎義経千本桜』の「渡海屋」および「大物浦」は別名「碇知盛」(いかりとももり)とも呼ばれ、知盛が崖の上から碇と共に仰向けに飛込み入水する場面がクライマックスとなっている。

官歴

※日付=旧暦

正月7日:蔵人
正月21日:従五位下
2月28日:武蔵守
9月28日:左兵衛権佐
正月5日:従五位上
8月27日:正五位下
10月10日:春宮大進(東宮・憲仁親王)
10月21日:中務権大輔。春宮大進・武蔵守如元
右近衛権少将
2月11日:従四位下。武蔵守如元
12月30日:武蔵守を辞任(後任・平知重)
正月6日:従四位上(平盛子御給)
2月19日:新帝(高倉天皇)昇殿
3月23日:左近衛権中将
8月4日:正四位下(後白河上皇御給)
正月24日:従三位。左中将如元
正月28日:丹波権守兼任
正月19日:春宮権大夫。右兵衛督
8月:春宮権大夫を辞任(重盛の死去)
9月5日:正三位。春宮権大夫に復任
10月9日:左兵衛督
2月21日:春宮権大夫を辞任(安徳天皇践祚)
2月25日:新院(高倉上皇)別当。御厩別当
2月:左兵衛督を辞任
3月26日:参議に補任。左兵衛督に復任
9月23日:参議を辞任
3月8日:左兵衛督を辞任
10月3日:権中納言
10月6日:帯剣を許される
11月23日:従二位(建礼門院御給)
8月6日:解官

関連項目

');