中世ギリシャ
中世ギリシア(ちゅうせいギリシア)は、一般的に、古代ローマ、東ローマ支配下のギリシアをいう。東ローマ時代のギリシアはスラヴ人やアラブ人の侵入で荒廃し、政治的には辺境に位置した[要出典]。
ローマ分裂以降のギリシャ
ローマ帝国が東西に分裂してからは、東ローマ帝国に属した。ユスティニアヌス1世治世にアテネのアカデミアが廃止され、学者がサーサーン朝に亡命したため、文化的にも政治的にも目立った動きはなくなった。ウマイヤ朝、ブルガリアが成立してからはアラブ人やスラヴ人の絶え間ない進入、攻撃の結果、住民たちのアナトリアやシチリアへの亡命、移住が相次ぎ、代わってスラヴ人の定住化が進んだ。このため、首都コンスタンティノープルの住民からは「スクラヴィニア」(スラヴ人地域)と呼ばれた。また一時期ブルガリア皇帝シメオン1世やサムイルによって、ほぼ全域をブルガリアに占領されたこともあった。コンスタンティノス5世、摂政バルダス、バシレイオス2世らの武力遠征によるスラヴ人の討伐とそれによる治安回復などにともない、ギリシャ人の再移住が進み、テマ・ヘラスとテマ・ペロポネソスが設置された。しかしスラブ人の影響を完全に消し去ることはできなかった、特に山岳地帯にはスラブ人集落が長く残り続け、後に樹立される十字軍国家は、それら反抗的なスラブ人たちの対処に追われることになる。[要出典]ミストラの要塞はスラブ人への備えとして建設された(詳細はジョフロワ1世・ド・ヴィルアルドゥアン、ギヨーム2世・ド・ヴィルアルドゥアンの項目を参照)[1]. ブルガリアの滅亡後も平穏な時代は訪れず。たびたびスラブ人の暴動が発生した。特に1041年に起こったブルガリアの大反乱時には、ギリシャ地方のスラブ人も反乱を起こし、多くのギリシャ人が殺された[1]。また、1172年のコンスタンティン・ボタンの反乱時には北部ギリシャが戦場となった。西からはノルマン人の侵攻が頻繁に行われた。1072年には、ボエモン1世率いるノルマン軍がラリッサまで攻め込んだ。1147年にはシチリア王国の襲撃により多くの被害を受け、コリントス、テーベが一時占領され、多くの捕虜が連行された[2][3]。1185年にもシチリア王国がギリシャに侵攻し、テッサロニキが占領された。古代に栄華を誇ったアテネも、この時代には一地方都市に過ぎなくなっていた。[要出典]
十字軍国家支配下のギリシャ
1204年の第4回十字軍によって東ローマ帝国が崩壊し、現在のギリシャにあたる部分も十字軍の手に落ち、テッサロニキ王国、アカイア公国、アテネ公国などの十字軍国家が建国された。またエピロスには、東ローマの貴族が樹立したエピロス専制侯国が誕生した。これらの諸勢力は合同や争いを繰り広げたが、ラテン帝国を滅ぼしたニカイア帝国や第2次ブルガリア帝国との戦いで衰退していった。ペロポネソスに設置されたモレアス専制公領では、古代ギリシャの研究が盛んになり、ヴェネツィア人やアルバニア人との交流で反映していたが。最終的には東ローマ帝国やオスマン帝国によって滅亡させられた。