公共の福祉
この記事は特に記述がない限り、日本国内の法令について解説しています。また最新の法令改正を反映していない場合があります。 |
公共の福祉(こうきょうのふくし)とは、人権相互の矛盾衝突を調整するために認められる衡平の原理のことをいう(一元的内在制約説)。
歴史
キケロがその著作『法について』(De Legibus)において "Salus populi suprema lex esto"(人民の福祉が最高の法たるべし)と唱えて以来、公共の福祉は統治の主要な論点であった。「福祉」の内実がどのようなものであれ、あらゆる政治思想家がこの格言を政治哲学の主要な眼目としてきた。
この用語は、日本国憲法
で用いられている。
公共の福祉の意味
公共の福祉の意味については、古くは争いがあった。尚、現行憲法では「公共の福祉に反する場合」国民の基本的人権(言論・結社・身体の自由等)を制限できるので、極めて重要である。
一元的外在制約説
公共の福祉という用語は、当初は人権の外にある社会全体の利益を指すために用いられ、公共の福祉を理由として人権を制約することが判例上広く認められていた。この説は、もっぱら人権の外部に「公共の福祉」なる概念が存在し、あらゆる人権保障に制約を加えることができる、という意味で「一元的外在制約説」と呼ばれる。
この説は現在では全く支持されていない。なぜならば「公共の福祉」を根拠にいかなる人権も制限可能であるならば、大日本帝国憲法の“法律の留保付き”の人権保障と全く同じ運用が可能になってしまい、個人の自由を最高の保護法益とする日本国憲法とまったく相容れなくなるからである。
二元的内在外在制約説
公共の福祉により制約が認められる人権は、経済的自由権(22条と29条)と社会権に限られ、12条・13条は訓示的規定に過ぎない、とし、右の権利以外は憲法的制約はなく、それぞれの社会・文化関係から自律的に制約されるのみとする説があり、これを「二元的内在外在制約説」と呼ぶ。
一元的内在制約説(通説)
宮澤俊義により主張され現在の通説とされる学説[1]。公共の福祉を人権相互の矛盾を調整するために認められる実質的公平の原理と解する。この意味での「公共の福祉」とは、憲法規定にかかわらず、すべての人権に論理必然的に内在しているとする。この「公共の福祉」原理は、自由権を各人に公平に保証するための制約を根拠付けるためには"必要最小限度の規制"のみを認め(自由国家的公共の福祉)、社会権を実質的に保証するために社会国家的公共の福祉として機能する、とする[2]。
例えば、憲法上保障される表現の自由は、同じく憲法上、幸福追求権の一種として保障されると解されているプライバシーの権利と衝突する。このような事態が生じる場合に両者の調整を図るための概念が「公共の福祉」である。
もっとも、このような理解に対しては、いかなる場合にいかなる程度の人権の制約が可能であるのか明らかでなく、結局「社会全体の利益」と理解した場合と同程度の不明確さが残るのではないかとの批判がある。このため、一元的内在制約説を人権制約に関する具体的な違憲審査基準の規準として準則化したものとして、「比較衡量論」(ad hoc balancing)や「二重の基準」 (double standard) の理論が提唱されている。なお、公共の福祉による人権制約は法令によってのみ行われ、法令による規制が合理的であるかどうかは違憲立法審査によって行われる。法令以外によっての公共の福祉による人権制約は許されない。例えば契約書や約款・就業規則等の規定が公共の福祉の根拠となることはない。なぜなら民法90条「公序良俗に反する契約は無効」とは全く異なる概念であるからである。
公共の福祉の内容
公共の福祉の内容については、「自由国家的公共の福祉」と「社会国家的公共の福祉」があるとする。
自由国家的公共の福祉
自由国家的公共の福祉とは、形式的公平・内在的制約・消極目的規制ともいわれ、「各個人の基本的人権の共存を維持するという観点での公平」であって、具体的には、『国民の健康・安全に対する弊害を除去』を目的とする制約」と解するのが多数説であるが、「他人の権利を害さないことと、基本的憲法秩序を害さないこと」を目的とする制約、と解する有力説(芦部)もある。
そして、自由国家的公共の福祉は、内心の自由を除くすべての人権に妥当するとされる。
社会国家的公共の福祉
社会国家的公共の福祉とは、実質的公平・政策的制約・積極目的規制ともいわれ、「形式的公平に伴う弊害を除去し、人々の『社会・経済水準の向上』を図るという観点での公平」と解するのが通説である。例えば、弱者保護や社会経済全体の調和ある発展のための規制である。
社会国家的公共の福祉は、経済的自由権と社会権に妥当する、とする説や、経済的自由権にのみ妥当する、とする説が有力である。これは積極目的規制が形式的公平を害するおそれがあるため限定的でなければならないからである。
消極目的規制の事例
精神的自由権等の重要な人権には、自由国家的公共の福祉すなわち消極目的規制のみが可能である。
消極目的規制の代表例としては、集会の自由を制限する凶器準備集合罪の規定や、表現の自由(集団示威行進)を制限する公安条例の規定(集団示威行進の許可制)がある。一般に人権制限には、制限目的の合理性と制限手段の合理性が必要とされるが、集会の自由や表現の自由にも消極目的規制は可能であり、消極目的規制とは 国民の健康・安全に対する弊害除去を目的とする制約 と解する多数説でも、これらの場合は国民の安全が害されるおそれがある場合であるから制限目的は合理的といえる。
特殊事例
憲法学が一応正面から論じてはいるが、公共の福祉との関係などの理論構成が不明確な事例として、在監関係・公務員関係・未成年者の人権制限・国立大学学生がある。
例えば、公務員の政治活動の制限の根拠については、憲法は「官吏に関する事務を掌理する」73(4)として、公務員関係の存在と自律性(15,73(4))を憲法秩序の構成要素として認めているから、「公務員関係の存在と自律性」が制限根拠となる とする説が有力であるが、これは公共の福祉論とは異質な理論といえる。「憲法秩序の構成要素」とは憲法自体が制限を要請しているとの意味に解せるから、公共の福祉論の枠外で憲法の規定(15,73(4))をそのように解釈することで制限を根拠づけるものといえる。(在監関係や公務員関係は古くは特別権力関係として議論された。)
未成年者については、選挙権の制限・行為能力の制限・婚姻の制限・飲酒喫煙の制限、がある。未成年者の人権制限の根拠については、憲法は成年制度の存在を予定している(15Ⅲ)からとする成年制度説が有力であるが、これも公共の福祉論(消極目的規制)とはやや異質な理論であり、公共の福祉論の枠外で15Ⅲの規定から制限根拠を導いているとみることもできる。
規制目的と合憲性判定基準の関係
司法審査における判定基準(合憲性判定基準/違憲審査基準)として、厳格な基準と緩やかな基準に大別する二重の基準理論があるが、消極目的規制の場合は厳格な基準の場合を含むものの、消極目的規制の場合は緩やかな審査基準の場合もあることに注意を要する。例えば経済的自由権の一種である営業の自由での薬事法距離制限の事例は、消極目的規制であるが、司法審査基準としては緩やかな基準である。(緩やかな基準のうちの「厳格な合理性の基準」が採られる。)
他方、積極目的規制がされる場合は、緩やかな審査基準であり、緩やかな基準のうちの「明白性の基準」等が採られる。
他国における公共の福祉に類する人権保護規定
内在制約型
人権を自然不可侵の権利とみなし、国民の自由と人権を制限するのは他人の人権と本人の自主規制のみとする。全体利益のためでも政治家が国民の人権を制限するのを禁止する。(西側自由民主主義国の標準)
- 人間と市民の権利の宣言(フランス人権宣言)
- 全ての市民は「自由、所有、安全、圧制への抵抗」の権利を付与されている(自然権=人が産まれながらにして所有する不可侵の人としての権利として付与されている)。「…各人の自然権の行使は、社会の他の構成員にこれらの同一の権利の享受を保証するという限界だけしか持たない」。
- ドイツ等、他国も同様である。(英米は条文羅列で人権を保証するが、政府に天与人権の制限立法は許していない)
- ドイツ連邦共和国基本法 第2条 [人格の自由、人身の自由] (1) 何人も、他人の権利を侵害せず、かつ憲法的秩序または道徳律に違反しない限り、自らの人格の自由な発展を求める権利を有する。(→ドイツ連邦共和国基本法)
外在制約型
全体主義国家に見られる憲法人権保障規定。全体、公益、公秩序のために政治家が国民の人権を制限する法律を制定可能。形式的には西欧自由民主主義国家のそれに予想外に似ているが、全体利益を理由にした留保条件・抜け穴があり、政治家の権力の濫用から国民人権を守るという近代憲法の役割を果たしていない(立憲主義も参照)。
自由民主党新憲法草案の12・13条案は現憲法の条文における「公共の福祉」が「公益及び公の秩序」に置き換わっていることから、この型の規定に属することとなり、近代憲法のあり方に反すると問題視する法曹関係者もいる。
- 朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法
- 第63条 朝鮮民主主義人民共和国において公民の権利及び義務は「一人は全体のために、全体は一人のために」という集団主義原則に基礎を置く。
その他
自由民主党新憲法草案において、公共の福祉は「公益及び公の秩序」に置き換わっており、これが一元的内在制約説から一元的外在制約説に変える、人権上大きな変更だと指摘する声もある(→憲法改正論議)。