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山野一

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山野 一
1996年撮影
1996年撮影
本名 橋口 保夫
生誕 (1961-04-02) 1961年4月2日(63歳)
日本の旗 福岡県小倉市
(現・北九州市
国籍 日本
活動期間 1983年 -
ジャンル ガロ系
鬼畜系
電波系
エログロ
青年漫画
育児漫画
代表作夢の島で逢いましょう
四丁目の夕日
貧困魔境伝ヒヤパカ
混沌大陸パンゲア
どぶさらい劇場
公式サイト ねこぢるライス
そせじkindle版応援サイト
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山野 一(やまの はじめ、1961年4月2日 - )は、日本漫画家である。福岡県小倉市出身。立教大学文学部卒。本名は橋口 保夫(はしぐち やすお)。

月刊漫画ガロ1983年12月号掲載の「ハピネスインビニール」でデビュー。貧困電波差別障害者などを題材にした反社会的な作風を得意とする特殊漫画家で「ガロ系」と呼ばれる日本のオルタナティヴ・コミック作家のなかでも、人間や現実の不条理混沌因果宿命悪意を滑稽さの入り混じった入念な表現で真正面から描いた、極北に位置する最も過激な作風の鬼畜系漫画家であった。

前妻は同じく漫画家のねこぢる[1]。彼女の生前は共同創作者の役割を務め、彼女の死後は「ねこぢるy」のペンネームでその作品を受け継いだ。

概要

月刊漫画ガロ1983年12月号掲載の「ハピネスインビニール」で漫画家デビュー。最初期は丸尾末広あるいはひさうちみちお的な描線でブラックユーモアの入り混じったシュールSF作品や精神知覚をテーマにした作品をガロ誌上に発表していたが、日本経済がバブルに差し掛かろうとする1980年代半ばになると、ある特徴を持った漫画作品を断続的に発表する様になる。それらの作品群で主役となる人物は、窮乏あるいは荒廃した生活環境に置かれることになる。底辺世界に着目した山野の作風は、『月刊漫画ガロ1985年7月号より1年間に渡り連載された長編『四丁目の夕日』によって完全に確立され、山野は鬼畜系特殊漫画家の地位を24歳で構築する。

同連載が終了したのち、主な活動の場をガロからエロ本に移し、主に荒廃した底辺の生活環境で「とことん抑圧」[* 1]される人々を主人公にした不道徳な漫画作品を描くようになる。

1980年代から1990年代にかけて『夢の島で逢いましょう』『四丁目の夕日』『貧困魔境伝ヒヤパカ』『混沌大陸パンゲア』『どぶさらい劇場』(すべて青林堂刊)など異色単行本を次々に発刊。その描写は極めて凄惨・過激で、貧困差別不条理電波畸形障害者虐待監禁変態廃人強姦ドラッグスカトロカニバリズム近親相姦精神世界新興宗教まで、ありとあらゆるタブーを題材とした徹底して救いのないストーリーに滑稽さの入り混じる入念な表現で底辺世界の無間地獄を描き続けた。

1990年からは妻であったねこぢるの共作者兼プロデューサー的な役割を務め、ねこぢると共に『ねこぢるうどん』『ねこ神さま』『ぢるぢる旅行記』などにまとめられた異色作品群を手掛け“ねこぢるムーブメント”を作り出した。1998年の末[2]からは、故・ねこぢるを継承した「ねこぢるy」の名義でも活動している。

経歴

生い立ち

1961年福岡県小倉市(現・北九州市)の炭鉱町に生まれる[3]。幼少期に三重県四日市市工業地帯に転居し、そこで少年時代を過ごす。父親は四日市ぜんそくの原因となった会社の環境課に勤めており、公害問題の反対運動に対処する窓口役であった。山野は当時の四日市について「住むとすぐに喘息になる街」と述べており、母親も排煙が原因で喘息を患い、山野も気管支炎で咳が止まらなかったという[4]

山野は自身の少年時代について「普通の公立学校に通って、特に目立たず、何もせずぼうっと暮らしていましたね。不良でもないし、インテリでもないし、読書家でもないし、スポーツもしない、本当に特徴のない子でしたね。あえて無理に言えば何もないっていうのが当時の印象ですね。」と回想しており、「育ったところに対して郷愁なんて何もない」と答えている[5]

また、『月刊漫画ガロ』1992年10月号「特殊漫画博覧会」の座談会にて少年時代から「会話が空転する」など周囲との違和感を感じていたと明かしており、「子供の頃って言葉が通じなくて悩んだ事があるんですよ。誰でもこんな事思ってるんだろうな、っていうような事を友達とか親とかに言っても非常に意外そうな顔されるんですよね。言葉を正確に自分が使ってるつもりなのに、意味が伝達出来ないんですよ。で自分はおかしいんじゃないか、って思った事がありますよね。」と述べている。『危ない1号』のロングインタビューでも同様に、「周囲の人と話しても、誰も僕の言葉を全く理解してくれなくて、みんなバカでこいつらとコミニュケーションしてもしょうがないと思いましたよ。自分の親にもそう思いましたね。例えば親と話してても、向こうの言うことは良くわかるんだけど、こっちの言うことは全然通じないんですよ。こっちの不満はほんの少しも理解してくれない。だから、もう拒絶するしかないんですよ。何を言っても通じない人間には話しかけても無駄だし、世の中の人すべてがそうなら、もう内側に籠もるしかないじゃないですか。」と答えている[6]

中学2年生の時に千葉県へ移り、ヤンキー文化カルチャーショックを受ける[7]。中学卒業後、地元一番の進学校である県内の高校に進学するが、本当に気の合う人というのは一人も居なかったという[8]。高校卒業後、立教大学に入学し、大学3年から4年にかけての時期に入部していた美術クラブで漫画を描き始める[9]。絵やデッサンに関しては全く習ったことが無く完全に独学だという[9]

吉永嘉明が行ったインタビューによると、山野は「大学2年か3年の時」に東京駅八重洲口で「神の啓示を受けた」という(この「神」について山野は「なんだかわからないから神様といってます」と説明している)[9]。その体験によって山野は、将来の自分の職業が「部屋にずっと籠って何かを書く仕事」になるという展望を得た(この時点では、漫画家になるという明確な展望を得たわけではない)[9]。また、インタビューの中で山野は、漫画を描くという労働の特徴として、「人と会わなくてすむ」ことを挙げている[9]。その上で、インタビュー当時の話として、他人との持続的な接触が要求される状況で心理的重圧を受けていたことを述べている[9]

「山野一」として

大学4年の時に青林堂に漫画を持ち込み、『月刊漫画ガロ1983年12月号に山野一名義で掲載された「ハピネスインビニール」で漫画家デビューする[10]

以後、『ガロ』で精神の内面や知覚神経をテーマとする作品を描いて活動するが、デビューから2年間は原稿料がまったく支払われず、大学卒業後の2年間はアルバイトで飢えをしのいでいたという。しかし、この労働経験について山野は、「非常に拭い難い汚点を残してしまった。自分は労働やそれに伴う人間関係を心底憎悪していたので、この時期は一番辛かった。どんなに惨めだろーが落ちぶれ果てよーが二度と再び働きに出るよーな事はすまい、ほんの少しでも世間の方々のお役に立つよーな事はやるまいと秘かに心に誓っていた。そんな心がけのせいであろうか、その後もこの世界ではひたすら冷遇され続けた。」と述べており、人生の汚点であったと述べている[11]

1985年2月には初の単行本となる『夢の島で逢いましょう』が青林堂より刊行されるが、「初めて単行本が出て印税というものを受け取った時は思わず目頭が熱くなった、あんまり安くて。それも旋盤工の月給程度の金額を御丁寧にも5分割で払って下さるのだ。商品としての自分の漫画の価値がいかに低いものであるかという事をつくづく思い知らされた。」と後年回想しており、家賃2万風呂なし共同便所の殺風景な四畳半アパートでガスも電話も止められ、荒廃した漫画家生活を送っていたという[11]

1980年代半ばになると、ある特徴を持った漫画作品を断続的に発表する様になる。それらの作品群は、現代社会を舞台とするそれらの作品で主役となる人物は、窮乏あるいは荒廃した生活環境に置かれている、または置かれることになる。

ガロ』1985年7月号から1986年7月号まで全12回に渡り連載した[10]長編『四丁目の夕日』では、下層労働者の息子である高校生を中心として下町の懐かしい風景の中に潜む格差・貧困・家族の絆や友情の崩壊といった悲劇を漫画史上に残る過激な表現を織り交ぜて執拗に描き、人間を狂気に至らしめる「不幸のどん底」を滑稽さの入り混じった入念な表現で余すことなく徹底的に描き切った。本作『四丁目の夕日』は現在に至るまで「不朽の怪作」として読み継がれるロングセラーとなっている。連載終了後、山野は『ガロ』のインタビューで救い様のない「不幸のどん底」を描き続ける事に関して「惨めな境遇にある者が幸福になるなんて絶対に許せないですよね。正しくないですよ。僕は正しい漫画を描いているのにな。理不尽な差別を受けて、皆から嫌われ蔑まれている者が爽やかな幸福を手に入れるなんて誰も納得しませんよ。運命からは逃れられない。」と述べている[12]

漫画評論家の枡野浩一や浅川満寛は、不幸が不幸を呼ぶ徹底して救いのない山野作品について「単なる冗談としてでいいから“信じられないほど不幸な人生”というのを、今ここで想像してみてほしい。きっと、あなたの想像力より山野一の想像力のほうが、はるかに深いどん底を覗いている。これ以上の不幸は存在しないだろうと想像する不幸を一蹴する不幸に次ぐ不幸、あまりの悲惨さに“もうこのへんでいいだろう”と思いつつ読み進めていくと、さらにその上を行くどん底が待ち受けている。ここまで来ると開き直ってある意味快楽的なのではないかと考えたりもする。この過剰ともいえる徹底したしつこさは凡百の作家の想像力をはるかに超えている。」と評しており、特殊漫画家の根本敬は山野の描き出す不幸のどん底を「逆に大乗仏教的ですらある」と評価している[13]

交友のあった編集者の吉永嘉明も著書の中で、「山野一さんは、常識的で真面目でクールな人で二枚目の男性だ。ねこぢるよりもむしろ山野さんこそ不思議で、『四丁目の夕日』とか『混沌大陸パンゲア』とか、なんであんな分裂的で過激な作品を描くのかよくわからない。」と述べている[14]

以後、1990年代半ばまでに発表された複数の短編[* 2]や長編『どぶさらい劇場』でも、同様に念入りで滑稽な表現を伴いながら、貧乏あるいは不自由な状態に置かれ、「とことん抑圧」[* 1]される人物が主な役割を果たしている。その一方で、1980年代後半の作品として、短編「のうしんぼう」のように、不明瞭で非現実的な生活の光景を丹念に描いたものがある。また、「大日如来」による「救済」についての短編「荒野のガイガー探知機」のように、仏教の象徴を描き、仏教の用語を使用している作品がある。その一方で、人物の現実認識の変調あるいは幻覚体験を題材とする作品[* 3]もある。

1990年代前半には『月刊HEN』『月刊FRANK』『漫画スカット』『グランドチャンピオン』『リイドコミック』など複数の雑誌で短編を発表している[15]。現代社会を舞台とするオムニバス作品『カリ・ユガ』の一部のエピソードでは、ヒンドゥー教の用語が用いられ、宗教的な世界観や象徴が表現されている。それらの特徴に加えて『コミックスコラ』誌上に全28回に渡って連載された「山野一」としては最後の長編作品となる『どぶさらい劇場』では、神の世界など特殊な描写も交えて新興宗教の活動と終焉を壮大なスケールで描いている。

吉永嘉明は著書の中で山野の作風と、ある種のカタルシスについて次の様に述べている。

当時の山野一さんの作品は、貧乏人や愚かでどうしようもない人たちの業が渦巻く、ベタベタにリアルに描き込んだ世紀末の煩悩漫画だった。

「人とは、なんとどうしようもない存在なのだろう」ということを、これでもかと描き、諦めたような不条理な作風は、良識派からは評価されにくいタイプのもので、カルトな人気の高い作家だった。そんな彼の漫画は、僕のような少数派を自認し、ルサンチマンを抱えた者には、独特の「癒し効果」のようなものがあった。

「ああ、やっぱりそうだよな……」

山野一さんの漫画を読むと、いつもそうつぶやくのだった。 — 吉永嘉明『自殺されちゃった僕』第2章「ねこぢるの思い出」49頁〜50頁(幻冬舎アウトロー文庫)

一方で、社会の底辺を題材にした鬼畜系特殊漫画を描き続ける事に関して山野はインタビューで次の様に答えている。

──山野さんはとことん悲惨な人達を描き続けていますけど、小誌の特殊漫画博覧会(92年10月号)での座談会で、そういった人を目撃する機会が多いと言われてましたね。
山野 自分と関わりのない人を第三者の立場で目撃することは凄く多いですね。例えば自分の妹がアレだとかそういうことはないですけど、傍観するような視界の中によくそういう人が登場しますね。

──子供の頃からそうでしたか?
山野 あったと思いますね。生まれたのが北九州で、四日市にも住んでましたし。両方ともろくでもない労働者の町でしたからね。廻りに文化的な人間なんて一人もいなかったんですよ。自分の育った家庭は特に悲惨ではなかったんです。ごく当たり前の団地ファミリーというか、別に問題もなかったし。高校ぐらいまで何も感じないで生活していたようですね。何か激昂するようなこともないし、沈み込むようなこともないし、何も感じないで何もしないでただボーッとしていましたね。

強い、悲惨な体験とかをして考え方がこうなったというような憶えはないんです。何でこんなにひねた見方をするようになったのかということのハッキリとした原因は自分でもよく解らないんですよ。団地の側面の全く窓のないただっ広い壁とか、そういうのを見て育ったせいかもしれないですね。ヒビが入った処を漆喰でヒビの通りに塗り固めて補修してあるんですけど、それが何か妙な象形文字みたいな形になったりしてましてね、そういうのを見てるうちに、こうなっちゃったのかもしれないですけど。 — 『月刊漫画ガロ』1994年2月号「混沌大陸パンゲア刊行記念 山野一インタビュー」248頁〜251頁
──それにしても、山野さんの漫画を読んでで〔ママ〕よく感じるのは、なんでこんなこと思いつくのかなってことなんです。たとえば、劣悪な居住空間にイラついてる貧乏な一家が穴掘ってって広々とした下水道に住む話とか。例を挙げていったらキリがないですけど、どうしていつもリアリティがあるくせに突飛なアイデアを思いつくんでしょう。
山野 それはわかんないですね。

──思いつこうと努力しているんですか。
山野 それはないですね。ただ、とことん抑圧されている人たちの姿を想像すれば……。

──でも、山野さんはそこまで抑圧されていないですよね。先程からの話の中でも特に抑圧された環境に育ってきてるという感じではなかったですし、貧乏でもないし。
山野 どうしてなんでしょうね。

──あと、飛んでるアイデアにプラスして生活臭のある、ブルーカラーに対する愛情ある描き込み。情けない主人公が定食屋でラーメンを頼むと、必ず醜悪なウェイトレスが出てきて、しかもどんぶりに指突っ込んでますからね。手抜きがないですよね。
山野 それは、その主人公が食いに行く店が汚いラーメン屋でなくてはならないからなんですよ。こぎれいな兄ちゃんが白い帽子かぶって作るラーメンではどうしてもだめなんです。

──勝手に描いてるようでいて緻密ですしね。気分だけで描いてる漫画っていうのは、どんなに発想が素晴らしくても読んでてちょっと疲れますけど、山野さんの作品は飛んでるくせに妙にリアリティがあって、すんなり物語の世界に入っていけるんですよね。そういう点では統一性がとれてますよね。
山野 僕にとって漫画を描くってことは、鼻をかんだりクソしたりせんずりこくのと一緒なんですよ。なんかを出してる、出さないと心のバランスが保てない。だからもし統一性がとれているとすれば、そういうものを吐き出していないと平常でいられないってことなんでしょうね。たぶん自分の中に同化できないようなものを出しちゃってるんだと思います。それが不満というものなんでしょうね。

──でも山野さんの作品は、全く世の中を拒絶しているわけではありませんよね。確かにマイノリティの感性は顕在してますが、それでもどこか生への愛着が感じられる。ニヒルではあるけど破滅的ではない。だから、飛んでるんだけど、決して理解不能なところまでぶっ飛んではいない。
山野 やっぱり、これで食ってるわけですから、普通の人のことを考えるんですよ。それで、普通の人が読んでわかる日本語で書いて、普通の人が見てわかる絵で描こうというのは最低考えますね。そうやってなんとか、社会の末端のほうで生きさせてもらってるんです。 — 『危ない1号』第2巻 188頁 吉永嘉明「ロングインタビュー 山野一」1996年 データハウス

ねこぢるの「共同創作者」として

このように「山野一」として創作活動を行う一方で、山野の漫画に感銘を受け、1985年頃に押しかけ女房のような形で結婚した妻のねこぢるが「画・ねこぢるし 作・山野一」の共同名義で『ガロ』誌上に『ねこぢるうどん』を発表して1990年に漫画家デビューする[* 4]

ねこぢるのデビュー以降、山野はねこぢるの「共同創作者」[16]として裏方の役割を務めるようになり、ある時期からねこぢるの創作を全面的に補佐することが山野の主な活動となった[16]

二人には「極めて微妙」な役割分担があり、ねこぢるの発想やメモをもとに山野がストーリーをネームにして書き起こし「読める漫画」にまで再構成する役割などを担った(山野はこの作業を「翻訳」と述べている)。これらの連作は、ねこぢる自身の夢の中の体験を基にした支離滅裂で不条理な展開やドラッグ中毒のようにサイケデリックな描写が特徴的である。

しかし、可愛らしくデフォルメされた絵柄とは裏腹にシュールを通り越して最早狂気の域に達している無邪気で残酷な子供的狂気を描いたストーリーとのギャップに若年層の支持も集めて一躍ねこぢるムーブメントが起こる。その結果、ねこぢると山野は作品の量産を強いられる事になり、仕事の依頼を断ることなく寝る間もなく作品を描き続ける事になったが、次第にねこぢるは精神が不安定となり奇行が目立つようになる。

そして1998年5月10日東京都町田市の自宅でねこぢるは首吊り自殺を遂げた。

1998年5月10日以降

ねこぢるの死後、1998年の末から[* 5]、ねこぢるが記録していた「夢のメモ」を元に山野がねこぢるの様式で描いた作品[* 6]を、「作・ねこぢる 画・山野一」の共同名義で発表する。以後、ねこぢるから継承したキャラクターを用いてねこぢるの様式で描いた漫画作品を「ねこぢるy」の名義で発表し始める。

山野は文芸雑誌のインタビューで「ねこぢる」と「ねこぢるy」の違いについて「"ねこぢる"作品はねこぢるを山野がサポートしてできたものです。"ねこぢるy"作品は山野が単独でねこぢるのキャラクターを使用しているものです。」と答えている[17]

『ガロ』2000年1月号から2002年10月号(休刊号)まで「ねこぢるy」の名義で『ねこぢるうどん』を連載するが、2002年冬に活動の場であった『ガロ』が休刊、作品発表の場を失った事で一時期漫画家を廃業に追い込まれる。

その後、消息も途絶えていたが2007年から創造学園大学芸術学科漫画コースの講師として2年間勤務する。2010年には画家としての活動も開始、発表済みまたは発表予定の絵画作品には、全てねこぢる及びねこぢるyの漫画作品のキャラクターである「にゃーこ」と「にゃっ太」が登場している。

2013年、『ねこぢるyうどん』の3巻以来11年ぶりとなる漫画単行本『おばけアパート前編』を「ねこぢるy」の名義で上梓、漫画家活動を本格的に再開する。

私生活では2006年に再婚し、2008年6月26日双子姉妹が誕生する。新しい家族との生活は2014年からKindleストアで個人出版されている描き下ろし育児漫画『そせじ』(山野一名義)に描かれている。これは山野一名義の漫画作品としては実に15年ぶりの新作となるが、かつての山野作品とは一線を画した愛らしいほのぼのとした作風となっており、山野は「元・鬼畜系漫画家」と紹介されている。

ねこぢるとの創作上の関係

ねこぢるとの相互影響

山野によると、ねこぢるの最初の漫画は、ねこぢるが「チラシの裏など」に描いていた「奇妙なタコのようなネコの絵」をモチーフとして、山野がストーリーを書くことから始まった[16]。二人には「極めて微妙」な役割分担があり、外部の人間をアシスタントとして入れることができなかったため、山野がねこぢるの「唯一の共同創作者」であった[16]

初期のねこぢる作品である『ねこぢるうどん』では、『ガロ』1992年2・3月合併号まで掲載時に山野が原作者としてクレジットされていた(以降「ねこぢる」名義に統一)。また、1980年代の山野作品に描かれていた物[* 7]が、ねこぢる作品の中に現れることがある。他方、1990年代前半の山野作品である「カリ・ユガ」や「どぶさらい劇場」に、ねこぢる作品のキャラクターである「にゃーこ」や「にゃっ太」の絵が描かれている箇所がある。

ねこぢるのルポルタージュ漫画作品『ぢるぢる旅行記』では、ねこぢると「旦那」の二人によるインドネパールでの旅が描かれている。また、ねこぢるが自身の私生活を題材とした作品『ぢるぢる日記』にも、「鬼畜系マンガ家」である「旦那」が登場している[18]

ねこぢるの死後、山野は雑誌に寄稿した「追悼文」の中で、ねこぢるの創作的な感性と可能性について、「ねこぢるは右脳型というか、完全に感性がまさった人で、もし彼女が一人で創作していたら、もっとずっとブッ飛んだトランシーな作品ができていたことでしょう」と評価している[16]。また、1998年5月以前の自身の活動については、「私も以前は、だいぶ問題のある漫画を描いていたものですが、“酔った者勝ち”と申しましょうか…、上には上がいるもので、ここ数年はほとんどねこぢるのアシストに専念しておりました」と打ち明けている[16]

一方、同じ頃に他の雑誌に寄稿した「読者のみなさんへ」と題する文章の中では、ねこぢるの死について、「故人の遺志によりその動機、いきさつについては、一切お伝えすることができません」と明言する[19]と共に、「生前、彼女が作品化するため、書きとめていた夢のメモを、私がいずれ描くことで、読者の方々への説明とさせていただきます」と述べている[19]。後に山野は、ねこぢるが見た夢の内容の記録である「夢のメモ」に基づく漫画作品[* 6]を、ねこぢるの作画様式に従って描いた。それらの作品は、「作・ねこぢる 画・山野一」という名義で発表された。その後、山野は「ねこぢるy」の名義で漫画の創作を始めた。山野は、ねこぢる作品の主要なキャラクターを受け継ぎ、ねこぢるの創作様式を踏襲する一方で、コンピュータによる作画を全般的に採り入れた。

作品

漫画単行本

多くの単行本が2000年代前半までに絶版になり、文庫が出版されていた『四丁目の夕日』以外は入手困難である。

「山野一」名義

一部の作品は成年コミックに指定されている。

「ねこぢるy」名義

  • ねこぢるyうどん - 2000年-2002年連載 (全3巻青林堂・絶版
  • インドぢる - 2003年 (文春ネスコ・絶版
  • おばけアパート・前編 - 2013年 (アトリエサード)

漫画作品

「山野一」の主な漫画作品

この表では、「山野一」の名義で発表された漫画作品のうち、単行本に収録されているものを示している。

  • 作品の順番は、作品を収録している単行本が最初に出版された日付の順に従っている。
  • 「短編」形態の作品の順番は、単行本の目次に記載されている作品名の順番に即している。

作品名 形態 作品を収録している単行本 初出[20][15]
タブー 短編 夢の島で逢いましょう (1985年) ガロ 1984年2・3月合併号
DREAM ISLAND 中編 夢の島で逢いましょう (1985年) ガロ 1984年8月号〜1984年10月号
アホウドリ 短編 夢の島で逢いましょう (1985年) ガロ 1984年11月号
食の探求者[* 9] 短編 夢の島で逢いましょう (1985年) ガロ 1984年12月号
畜膿三代 短編 夢の島で逢いましょう (1985年) ガロ 1985年1月号
白鳥の湖 短編 夢の島で逢いましょう (1985年) ガロ 1985年2・3月合併号
四丁目の夕日 長編 四丁目の夕日 (1986年) ガロ 1985年7月号〜1986年7月号
人間ポンプ 短編 ヒヤパカ (1989年) 漫画スカット (20-22)[* 10]
きよしちゃん 紙しばいの巻 短編 ヒヤパカ (1989年) ガロ 1987年9月号
GOGOやくたたず 短編 ヒヤパカ (1989年) 漫画スカット (17)
ビーバーになった男 短編 ヒヤパカ (1989年) 漫画スカット (7)
荒野のガイガー探知機 短編 ヒヤパカ (1989年) 漫画スカット (24)
ハネムーン 短編 ヒヤパカ (1989年) 漫画スカット (5)
パチンコのある部屋 短編 ヒヤパカ (1989年) 漫画スカット (2)
旅情 短編 ヒヤパカ (1989年) 漫画スカット (4)
荒野のハリガネ虫 短編 ヒヤパカ (1989年) 漫画スカット (13-14)
星の博士 短編 ヒヤパカ (1989年) 漫画スカット (8)
押入れの女 短編 ヒヤパカ (1989年) 漫画スカット (3)
侏儒の家 短編 ヒヤパカ (1989年) 漫画スカット (25)
太陽とダリヤ 短編 ヒヤパカ (1989年) 漫画スカット (19)
のうしんぼう 短編 ヒヤパカ (1989年) ガロ 1988年12月号
カリ・ユガ オムニバス
(全7話)
混沌大陸パンゲア (1993年) グランドチャンピオン 1992年1-7号
脳梅三代 短編 混沌大陸パンゲア (1993年) 月刊FRANK 1992年7月号
むしゃむしゃむソーセージ
[* 11]
短編 混沌大陸パンゲア (1993年) 月刊HEN 1991年5月号
工員 短編 混沌大陸パンゲア (1993年) 月刊FRANK 1993年2月号
さるのあな 短編 混沌大陸パンゲア (1993年) 月刊HEN 1990年9月号
走れタキシェ 短編 混沌大陸パンゲア (1993年) 漫画スカット 1990年1月号
花嫁の花園 短編 混沌大陸パンゲア (1993年) 漫画スカット 1990年2月号
短編 混沌大陸パンゲア (1993年) 月刊HEN 1991年12月号
Closed Magic Circle 短編 混沌大陸パンゲア (1993年) 月刊HEN 1991年11月号
SCHIZOID-ZONE 短編 混沌大陸パンゲア (1993年) 月刊FRANK 1992年10月号
水産 短編 混沌大陸パンゲア (1993年) 月刊FRANK 1993年5月号
火星法経会 短編 混沌大陸パンゲア (1993年) 月刊FRANK 1993年6月号
ラヤニール 短編 混沌大陸パンゲア (1993年) 月刊FRANK 1992年8月号
パンゲア 短編 混沌大陸パンゲア (1993年) 月刊FRANK 1993年1月号
ムルガン 短編 混沌大陸パンゲア (1993年) 月刊FRANK 1992年9月号
どぶさらい劇場 長編 どぶさらい劇場 (1994年) コミックスコラ
ウオの目君 読切連載 ウオの目君 (1994年) リイドコミック 1990年〜1996年
たんつぼ劇場 読切連載 夢の島で逢いましょう(2000年) マガジン・バン 1997年〜1999年
そせじ 描き下ろし そせじ(2014年) Kindle 2014年〜継続中

「山野一」の主な単行本未収録作品

この表では、「山野一」の名義で発表された漫画作品のうち、現在まで単行本に収録されなかった作品を示している。

  • 作品の順番は、作品の初出誌が出版された日付の順に従っている。
作品名 形態 初出
ハピネスインビニール 短編 ガロ 1983年12月号
フルジョアジーの秘密 短編 ガロ 1984年1月号
アルバイト 短編 ガロ 1984年7月号
ララ物質の秘密 中編 ガロ 1985年5月号〜1985年6月号
ブリの話 短編 ガロ 1986年8月号
睡蓮 短編 ガロ 1986年9月号
きよしちゃんのおつかい 短編 ガロ 1986年11月号
出前物語 短編 ガロ 1986年12月号
アパートの魔神 短編 SMセレクト 1987年3月号
HOLY MEN RUN 短編 ハイパーカルトコミック カリスマ No.1
(1987年3月 大正屋出版)
? 短編 阿修羅 創刊号
(1987年9月 大正屋出版)
きよしちゃんの剣道一直線 短編 ガロ 1987年4月号
? 短編 SMファン 1987年3月号
? 短編 SMファン 1987年6月号
? 短編 SMファン 1987年8月号
? 短編 SMファン 1987年9月号
? 短編 SMファン 1987年10月号
エディプスの天女 詳細不明 SMセレクト
1987年12月号
1988年2月号
1988年6月号
1988年10月号
1988年12月号
1989年3月号
夢魔 短編 SMセレクト 1988年8月号
隷女陳列棚 短編 調教塾(SMセレクト 1989年4月増刊)
? 短編 月刊HEN 1990年8月号(創刊号)
黄金の誕生日 短編 月刊HEN 1991年1月号
? 短編 月刊HEN 1991年2月号
暑い夏 短編 ガロ 1991年9月号
? 短編 月刊HEN 1991年11月号
? 短編 月刊FRANK 1992年4月号
THE Bottom of Deposite 短編 月刊HEN 1992年5月号
おねえちゃんの卵 短編 月刊FRANK 1992年11月号
瘋癲老人日記 短編 月刊FRANK 1993年4月号
ガロ 1994年2月号(再録)
蟹工船 短編 月刊FRANK 1993年7月号
ガロ 1997年1月号(再録)
恋のナイトドライブ 労働者カップル♥コージ&民江 短編 純情エンジェル 1995年4月号
ガロ 1995年7月号(再録)
? 短編 S&Mスナイパー 1995年8月号
? 短編 S&Mスナイパー 1996年6月号
ニルヴァーナ電波塔 不明 純情エンジェル掲載年月日不明
きのどくなお姫さま 4コマ 危ない1号/第3巻 (1997年9月)
火星波止場 読切連載 BURST HIGH

ねこぢるとの共同名義

作品名 名義 作品を収録している単行本 初出
ねこぢるうどん 画・ねこぢるし
作・山野一
ねこぢる 『ねこぢるうどん』 青林堂 1992年 ガロ 1990年6月号
ねこぢるうどん「かぶとむしの巻」 画・ねこぢるし
作・山野一
ねこぢる 『ねこぢるうどん2』 青林堂 1995年 ガロ 1990年7月号
ねこぢるうどん「じてんしゃでゴーの巻」 画・ねこぢるし
作・山野一
ねこぢる 『ねこぢるうどん2』 青林堂 1995年 ガロ 1990年8月号
ねこぢるうどん「さばの天ぷらの巻」 画・ねこぢるし
作・山野一
ねこぢる 『ねこぢるうどん2』 青林堂 1995年 ガロ 1990年9月号
ねこぢるうどん「いいさかなの巻」 画・ねこじるし〔ママ
作・山野一
ねこぢる 『ねこぢるうどん3』 文藝春秋 1999年 ガロ 1990年10月号
ねこぢるうどん「のぐちひでよの巻」 画・ねこぢるし
作・山野一
ねこぢる 『ねこぢるうどん2』 青林堂 1995年 ガロ 1990年11月号
ねこぢるうどん「へんなももの巻」 画・ねこぢるし
作・山野一
ねこぢる 『ねこぢるうどん2』 青林堂 1995年 ガロ 1990年12月号
ねこぢるうどん「しっこちっこぴゅーしゅーの巻」 画・ねこぢるし
作・山野一
ねこぢる 『ねこぢるうどん』 青林堂 1992年 ガロ 1991年1月号
ねこぢるうどん「□ぬごろしの巻」 画・ねこぢるし
作・山野一
ねこぢる 『ねこぢるうどん2』 青林堂 1995年 ガロ 1991年2・3月合併号
ねこぢるうどん「大魔導師の巻」 山野一・作
ねこぢるし・画
ねこぢる 『ねこぢるうどん』 青林堂 1992年 ガロ 1991年4月号
ねこぢるうどん「がの巻」 作・山野一
画・ねこぢるし
ねこぢる 『ねこぢるうどん2』 青林堂 1995年 ガロ 1991年5月号
ねこぢるうどん「かたつむりの巻」 画・ねこぢるし
作・山野一
ねこぢる 『ねこぢるうどん』 青林堂 1992年 ガロ 1991年6月号
ねこぢるうどん「たんこぶ屋の巻」 画・ねこぢる
作・山野一
ねこぢる 『ねこぢるうどん』 青林堂 1992年 ガロ 1991年8月号
ねこぢるうどん「川ぞいの家の巻」 画・ねこぢる
作・山野一
ねこぢる 『ねこぢるうどん』 青林堂 1992年 ガロ 1991年9月号
ねこぢるうどん「ねこさいばんの巻」 画・ねこぢる
作・山野一
ねこぢる 『ねこぢるうどん』 青林堂 1992年 ガロ 1991年10月号
ねこぢるうどん「たましいの巻」 画・ねこぢる
作・山野一
ねこぢる 『ねこぢるうどん』 青林堂 1992年 ガロ 1991年12月号
ねこぢるうどん「クリスマスの巻」 画・ねこぢる
作・山野一
ねこぢる 『ねこぢるうどん』 青林堂 1992年 ガロ 1992年1月号
ねこぢるうどん「かわらのこの巻」 画・ねこぢる
作・山野一
ねこぢる 『ねこぢるうどん2』 青林堂 1995年 ガロ 1992年2・3月合併号
にゃーことにゃっ太の夏休み 《後編》 作・ねこぢる
画・山野一
ねこぢる 『ねこぢるせんべい』 集英社 1998年 描き下ろし
とうめい 作・ねこぢる
画・山野一
ねこぢる 『ねこぢるうどん1』 文藝春秋 1998年 描き下ろし
へんないえ 作・ねこぢる
画・山野一
ねこぢる 『ねこぢるうどん2』 文藝春秋 1999年 描き下ろし
探偵 作・ねこぢる
画・山野一
ねこぢる 『ねこぢるうどん 3』 文藝春秋 1999年 描き下ろし

展示 

個展

  • 2011.3.4-3.13 ねこぢるy個展『湾曲した記憶』渋谷ポスターハリスギャラリー
  • 2011.9.17-9.26 山野一とねこぢるy個展『失地への帰還』渋谷ポスターハリスギャラリー
  • 2013.11.1-11.17 漫画家生活30周年記念『ねこぢるy(山野一)新作漫画原画&絵画展2013』渋谷ポスターハリスギャラリー
  • 2015.8.20-9.5 山野一/ねこぢるy個展『そこいらの涅槃(ニルヴァーナ)』ぎんけいさろん&ギャラリー 東京銀座
  • 2016.7.7-8.30 ねこぢる・ねこぢるy・山野一作品展『ねこぢるのなつやすみ』不思議博物館分室サナトリウム 福岡天神

脚注

注釈

  1. ^ a b 吉永嘉明が行ったインタビューの中で、山野のある種の漫画作品についての質問に答える際に、山野は「とことん抑圧されている人たち」という表現を用いている。

    〔吉永〕―それにしても、山野さんの漫画を読んでで〔ママ〕よく感じるのは、なんでこんなこと思いつくのかなってことなんです。たとえば、劣悪な居住空間にイラついてる貧乏な一家が穴掘ってって広々とした下水道に住む話とか。例を挙げていったらキリがないですけど、どうしていつもリアリティがあるくせに突飛なアイデアを思いつくんでしょう。
    山野 それはわかんないですね。
    〔吉永〕―思いつこうと努力しているんですか。
    山野 それはないですね。ただ、とことん抑圧されている人たちの姿を想像すれば……。

    —吉永嘉明「ロングインタビュー 山野一」『危ない1号』第2巻 データハウス 1996年 188頁。

  2. ^ このような作品の例として、『貧困魔境伝ヒヤパカ』(1989年 青林堂刊)の一部の作品と、『混沌大陸パンゲア』(1993年 青林堂刊)に収録されているオムニバス作品「カリユガ」がある。
  3. ^ このような作品の例として、『混沌大陸パンゲア』(1993年 青林堂)に収録されている「壁」「Closed Magic Circle」「SCHIZOID-ZONE」などがある。
  4. ^ 『月刊漫画ガロ』1990年6月号に「ねこぢるうどん」という題の短編が掲載されている(ねこぢる『ねこぢるうどん』青林堂 1992年 124頁)。この作品は、ねこぢるの「デビュー作」とされている。
  5. ^ 文藝春秋版の『ねこぢるうどん1』の初版が発行された日付が1998年12月25日であることによる(ねこぢる『ねこぢるうどん 1』文藝春秋 1998年 150頁)。
  6. ^ a b ねこぢるが見た夢の記録を元に描かれ、「作・ねこぢる 画・山野一」の名義で発表された3つの作品は、「とうめい」、「へんないえ」、「探偵」と題され、それぞれ文藝春秋が発行した『ねこぢるうどん1』(1998年12月)、『ねこぢるうどん2』(1999年2月)、『ねこぢるうどん3』(1999年5月)に「描き下ろし」として収録されている。
  7. ^ このように二人の作品に共通して現れる物の例として、装飾付きの大型トラックがある。それらのトラックの車体は、「はぐれ豚」または「一匹豚」と書かれた看板で飾られている。山野作品での「はぐれ豚」の例は、山野一『ヒヤパカ』青林堂 1989年 56頁参照。ねこぢる作品での「はぐれ豚」の例は、ねこぢる『ねこぢるまんじゅう』文藝春秋 1998年 25頁参照。ねこぢる作品での「一匹豚」の例は、ねこぢる『ねこぢるうどん3』文藝春秋 1999年 36-37頁参照。
  8. ^ この漫画単行本(1989年版)は、表紙に「貧困魔境伝 ヒヤパカ」と記されているが、実際には『ヒヤパカ』という名称で登録されている。
  9. ^ 人肉食が法的に許された世界という設定で描かれた風刺漫画であったが、2000年に再発された新装改訂版では表現上の問題から削除されている。
  10. ^ 『ヒヤパカ』(1989年)の初出一覧では、雑誌「漫画スカット」に関しては番号が記されているのみで、作品が掲載された時期は明示されていない。
  11. ^ 単行本では、この作品の題名「むしゃむしゃむソーセージ」の三つめの「む」(「ソ」の直前)は、「ゃ」と同じ大きさの小さい字体で表記されている。

出典

  1. ^ ねこぢる 『ねこぢるせんべい』 集英社、1998年、137頁、「夫・漫画家 山野一」による「あとがき」
  2. ^ ねこぢる蒐集支援ホームページ『月に吠える』ねこぢる作品リスト-1991〜2004-
  3. ^ 『危ない1号』第2巻、182頁。
  4. ^ 『危ない1号』第2巻、183頁。
  5. ^ 『危ない1号』第2巻、184頁。
  6. ^ 『危ない1号』第2巻、189頁。
  7. ^ 『危ない1号』第2巻、185頁〜186頁。
  8. ^ 『危ない1号』第2巻、186頁。
  9. ^ a b c d e f 『危ない1号』第2巻、187頁。
  10. ^ a b 月刊漫画ガロ作品リスト”. 2013年2月20日閲覧。
  11. ^ a b 『月刊漫画ガロ』1993年6月号、203頁。
  12. ^ 『月刊漫画ガロ』1992年6月号「ねこぢる特集」より。
  13. ^ 四丁目の夕日青林堂版ならびに扶桑社文庫版の巻末解説(根本敬)参照。
  14. ^ 吉永嘉明『自殺されちゃった僕』(幻冬舎アウトロー文庫)第2章「ねこぢるの思い出」69頁。
  15. ^ a b 山野一 『混沌大陸パンゲア』 青林堂、1993年、224頁、初出一覧。
  16. ^ a b c d e f 山野一「特別寄稿・追悼文」、『まんがアロハ!増刊「ぢるぢる旅行記総集編」7/19号』、ぶんか社、1998年7月19日、166頁。
  17. ^ 『2000SUMMER 文藝bungei』 「特集ねこぢる。」河出書房新社刊。
  18. ^ ねこぢる 『ぢるぢる日記』 二見書房、1998年、75頁。
  19. ^ a b 山野一「読者のみなさんへ」、『月刊コミックビンゴ』第3巻第9号、文藝春秋、1998年7月1日、195頁。
  20. ^ 山野一 『ヒヤパカ』 青林堂、1989年、176頁、初出一覧。

参考文献

  • 山野一『四丁目の夕日』Kindle版あとがき「四丁目の頃」
  • 青林堂『月刊漫画ガロ』1992年6月号「ねこぢる特集」
  • 青林堂『月刊漫画ガロ』1992年10月号「特殊漫画博覧会」
  • 青林堂『月刊漫画ガロ』1993年6月号「食えませんから」203頁
  • 青林堂『月刊漫画ガロ』1994年2月号「混沌大陸パンゲア刊行記念 山野一インタビュー」248-251頁
  • 青林堂『月刊漫画ガロ』2001年1月号「ねこぢるy特集」
  • 吉永嘉明「ロングインタビュー 山野一」『危ない1号』第2巻、データハウス、1996年、182-189頁、ISBN 4-88718-361-5 
  • 吉永嘉明『自殺されちゃった僕』幻冬舎アウトロー文庫、2008年
  • 月刊漫画ガロ作品リスト”. 長井勝一漫画美術館公式ホームページ. 2013年2月20日閲覧。
  • ねこぢる蒐集支援ホームページ『月に吠える』ねこぢる作品リスト-1991~2004-
  • 山野一『ヒヤパカ』青林堂、1989年、176頁。ISBN 4-7926-0194-0 
  • 山野一『混沌大陸パンゲア』青林堂、1993年、224頁。ISBN 4-7926-0237-8 
  • 山野一「特別寄稿・追悼文」『まんがアロハ!増刊「ぢるぢる旅行記総集編」7/19号』、ぶんか社、1998年7月19日、166頁。 
  • 山野一「読者のみなさんへ」『月刊コミックビンゴ』第3巻第9号、文藝春秋、1998年7月1日、195頁。 

解説サイト

夢の島で逢いましょう

そせじ

外部リンク

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