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摠見寺

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摠見寺(そうけんじ)は滋賀県蒲生郡安土町安土城跡にある臨済宗妙心寺派寺院山号は「遠景山」。

寺伝略歴

天正年間に安土城築城に伴って、織田信長によって城郭内に建立された。開山は、織田一族の犬山城主織田信安の三男で禅僧剛可正仲とされているが、実際の創建時の住職尭照であったようである。

織田信長は、近隣の社寺から多くの建物を移築し、建立したようである。具体的には、重要文化財に指定されている楼門や三重塔などをあげられる。

 正仲の死後、その父玉甫(織田信安)が住職となる。玉甫の死後は、しばらく住職不在となる。元和3年織田信雄の仲介で龍安寺西源院の住職寿圭が総見寺住職を兼務することになる。寿圭は臨済宗妙心寺派の僧侶であり、そのために総見寺は同派に所属するようになったようである。後に寿圭は妙心寺住職になる。

 元和9年(1623)8月3日二代住職寿圭は死去、その跡目をめぐり、愚門と嶺南(東禅寺)が争論をおこす。幕府の裁決により、織田一族の愚門が後継者に選ばれる。以後、江戸時代を通じ、歴代の住職は織田家の一族から選ばれることになる。また、歴代の住職は丹波柏原藩主織田家の当主の猶子となった。

 公的な歴代の住職は以下の通りである。

 江戸時代の寺領は227石5斗余りであった。ただし、檀家は持たなかった。18世紀末の段階では仁王門、書院、方丈など22棟の建物のあったことを確認できる。ただし、安政元年(1854年)11月16日、本堂など主要な建物のほとんどを焼失した。その後、徳川家康邸跡と伝えられる場所に仮本堂を建てた。明治維新後、寺領の喪失などにより、衰退していった。

 なお、江戸時代には同寺で天和元年(1681年)に信長の百年忌、享保16年(1731)に百五十年忌、天明元年に(1781)ニ百年忌、天保3年(1832年)にニ百年忌の法事が営まれた。その際には丹波柏原藩主織田家をはじめとする織田一族や領主である近江仁正寺藩主市橋家から使者が派遣されている。

所在地

滋賀県蒲生郡安土町下豊浦6367

近隣情報

交通アクセス

外部リンク

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