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舟橋家

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舟橋家(ふなばしけ)は舎人親王の子孫で、清原氏の流れを汲む堂上家船橋家とも記す。 家格は半家極官正二位侍従少納言式部少輔で、代々天皇の侍読を務める。家業は明経道


清原家(舟橋家)は明経道を以って代々宮中に仕え、押小路家とともに明経博士大外記を世襲した。室町時代の清原業忠正三位大蔵卿少納言)(1409年-1467年)は清原氏初の公卿になり、その養子となった吉田兼倶の子清原宣賢(きよはらのぶかた)(正三位侍従少納言)(1457年-1550年)は明経道を研究整理してとり纏めた。


清原宣賢の娘は室町将軍家足利義晴に仕えており、細川氏細川幽斎実母である。また宣賢の孫清原枝賢(えだかた)(正三位宮内卿侍従少納言)(1520年-1590年)の娘マリアは、細川ガラシャに仕えてキリスト教入信を手助けした。 なお、賤ヶ岳の七本槍の一人平野長泰は舟橋家の庶流の出(宣賢の曾孫)とする説がある。

舟橋を家名とするのは清原国賢(きよはら の くにかた。従三位大蔵卿侍従少納言)(1544年-1615年)の子で後陽成天皇後水尾天皇の侍読を務めた舟橋秀賢(ふなばし ひでかた。従四位上式部少輔明経博士)の代以降である。舟橋家からは伏原家が分かれ出る。
ちなみに幕末の舟橋在賢(あきかた)・康賢(みちかた)父子は廷臣八十八卿列参事件に加わった。

江戸時代の家禄は400石。明治時代以降は子爵


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