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聖地 (アブラハムの宗教)

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1570年に描かれた「聖なる国」の地図

聖なる国(せいなるくに、アラビア語:العربية、ヘブライ語:אֶרֶץ הַקּוֹדֶשׁ、英語:Holy Land)とは、パレスチナ地域の宗教的な呼称のひとつ。キリスト教、イスラム教ユダヤ教にとって聖地である [1]

概要

イェルサレムの聖墳墓教会
嘆きの壁(手前中央)と岩のドーム(左奥)

聖なる国はユダヤ教(ソロモン神殿跡の嘆きの壁)、イスラム教(預言者ムハンマド昇天した場所の岩のドーム)、キリスト教(キリストが処刑された跡地に建つ聖墳墓教会)の最大の、若しくは重要な聖地となっている。中東のパレスチナ地域等を包含する地理的領域を指す用語である。今日、この地域はイスラエルパレスチナヨルダンレバノン等が支配する地域に跨っている。聖なる国の重要性は、イェルサレムのユダヤ教の唯一の聖地、イスラム教の第三の聖なる都市、キリスト教の発祥の地の宗教的意義に由来するものであり、その重要性は過去の宗教的な戦争の要因の一つであり、現在のイスラエルとパレスチナの紛争にも繋がるものとなった。

位置

聖なる国と呼ばれる地域は、ヨルダン川地中海の間に位置する地域に位置するもので、ヨルダン川東岸も含む。伝統的に、それはイスラエルの聖書の土地とパレスチナの地域の両方と同義である。「地」という用語は、通常、イスラエルの近代的な状態、パレスチナ自治区、ヨルダン西部、レバノン南部とシリア南西部の一部にほぼ対応する領土を指すもので、ユダヤ人、キリスト教徒、イスラム教徒は、すべてそれを聖なると見なす。

沿革

ユダヤ教の聖地化

復元されたソロモン神殿

紀元前1000年頃にヘブライ王国が成立し、ダヴィデ王がイェルサレムの地を都とし、3代目のソロモン王によって王国は絶頂期を迎え、イェルサレム第一神殿が建設され、ユダヤ教最大の都市となった。しかし、衰退したヘブライ王国は紀元前586年7月11日、ユダ王国(分裂したヘブライ王国の南の王国、イェルサレムを首都とした)は完全に滅ぼされ、エルサレムの神殿ならびに都市も破壊され、いわゆるバビロン捕囚事件が起こった。

しかし、その後現地宗教の保護に重きを置くペルシア王キュロス2世はユダヤ人のイェルサレムへの帰還を赦し、破壊されていたイェルサレム神殿はキュロスによって再建された(第2神殿)。その後、ヘロデ朝ユダヤの王、ヘロデ王は第二神殿をほぼ完全に改築し、ヘロデ神殿と呼ばれる巨大な神殿を建設した。しかし、ローマ帝国への反乱であるユダヤ戦争が起こり、イェルサレムが陥落すると、その神殿は破壊され、ユダヤ人は世界各地に離散した。

キリスト教の聖地化

キリストの磔刑

紀元30年ごろ、この地のゴルゴタの丘キリスト教の祖・イエス・キリストが処刑された。また、313年にはローマ帝国がミラノ勅令によってキリスト教を公認し、320年ごろにコンスタンティヌス1世(312年にキリスト教に改宗。)の母太后である聖ヘレナが巡礼を行い、イエスの磔刑に使われた十字架を発見した(とされる)ことで、エルサレムはキリスト教の聖地と化した。市名は再びイェルサレムに戻され、ゴルゴタの丘とされた地に聖墳墓教会が立てられ、多くのキリスト教徒が聖地と看做し、巡礼を多く行った。

イスラム教の聖地化

岩のドーム
アル=アクサー・モスク

イスラム教メッカマディーナ(メディナ)に次ぐ重要な聖地と看做される所以は、預言者ムハンマドが一夜のうちに昇天する旅(ミウラージュ)を体験した場所とされることである。クルアーンでは、マディーナ(メディナ)の預言者のモスクに住していた時代のムハンマドが、神の意志により「聖なるモスク」すなわちメッカのカアバ神殿から一夜のうちに「遠隔の礼拝堂」、すなわちイェルサレム神殿までの旅をしたと語っている。この伝説は早い時期に、すでに事実とみなされており、神殿の丘におけるムハンマドが昇天したとされる場所には東ローマ帝国領であったイェルサレムを占領したのち、ウマイヤ朝の時代に岩のドームが築かれ、また、丘の上には「遠隔の礼拝堂」を記念するアル=アクサー・モスク(銀のドーム)が建設され、聖地のひとつと見なされている。

十字軍

1098年に、イスラム教国であるファーティマ朝が再びイェルサレムの地を奪回することに成功する。しかし、翌年には東ローマ帝国の要請でローマ教皇ウルバヌス2世が呼びかけた、世にいう第一次十字軍の軍勢がイェルサレムになだれ込み、多くのムスリムやユダヤ教徒の住民を女子供に関らず虐殺・迫害・強姦し、イスラム教国家に衝撃を与えた(エルサレム攻囲戦)。そして、1099年に「聖地の守護者」という名目でイェルサレム王国を成立させた。イェルサレム王国アンティオキア公国トリポリ伯国等の、いわゆる「十字軍国家」が成立し、キリスト教徒の支配する地となった。

現在

クネセト

エルサレムは、古くより三つの宗教の聖地として栄えたものの、経済的な観点では必ずしも重要重要な都市ではなかった。古代のユダ王国や、十字軍国家であるイェルサレム王国を除いては、エルサレムは一地方都市にとどまっていた。しかし宗教的には非常に重要な土地であり、イギリスの委任統治領時代に首都がおかれたこともあって政治的重要性も増した。現在においても、エルサレムは、議会や首相府、中央省庁などがある政治と文化の中心であり、イスラエル最大の都市である。また、イスラエルは首都であると称し、事実上の首都である。

近年、パレスチナの地を巡るイスラエル人とパレスチナ人との関係から生じた紛争(パレスチナ問題)などの政治問題が浮き彫りになり、問題視される。

脚注

  1. ^ それゆえの紛争も起こった

関連項目

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