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源義家

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時代 平安時代後期
生誕 長暦3年(1039年
死没 嘉承元年7月4日1106年8月4日
改名 源太、不動丸、義家
別名 八幡太郎
官位 従五位下出羽守、鎮守府将軍
贈正三位
氏族 清和源氏頼義
父母 頼義平直方
兄弟 義家義綱義光快誉
義宗義親義国義忠義時
義隆為義
墓所 大阪府羽曳野市通法寺

源 義家(みなもとの よしいえ)は、平安時代後期の武将で、河内源氏の嫡流。通称は八幡太郎(はちまんたろう)といい、八幡太郎義家という呼び名でも知られる。

前九年の役後三年の役にて安倍氏清原氏といった蝦夷俘囚の乱を鎮圧する他、東国の乱鎮定に活躍し、白河法皇をして「天下第一武勇の士」と賞賛された。武門の棟梁として武士の保護に務め、武士のあるべき姿を確立したと言われるが、奥州への野望を朝廷に警戒され、力は衰えていった。院昇殿を許され正四位下に昇叙。大正期に贈正三位。

生涯

長暦3年(1039年)、源頼義の長男として、河内源氏の本拠地である河内国石川郡壷井(現大阪府羽曳野市壷井)の香炉峰の館に生まれ、幼名は源太と称する。二歳で院に謁見し、その時に縅した鎧は「源太が産衣」と名付けられる。京都郊外の石清水八幡宮で元服したことから八幡太郎と称す。

鎮守府将軍、陸奥守に任ぜられた父頼義が安倍氏と戦った前九年の役では、天喜5年(1057年)11月に数百の死者を出し大敗した黄海の戦いで、僅か六騎残った官軍の退却を助け、義家の射る矢は神の如しと称えられる。この役で生け捕った敵の首を髭ごと打った刀は「髭切」と名付けられたという逸話が残る。その後、奥州安倍氏を平定し、その勲功を賞され天喜6年(1058年)2月25日に従五位下出羽守を叙任される。

1083年鎮守府将軍となり、清原氏の内紛である後三年の役が起こるとこれも平定するが、朝廷はこの乱を義家の個人的野望のための私闘と見抜き報奨を与えなかった。このため義家は、河内国石川荘の自分の私財を投じて部下の将士に報奨を与え、武家の棟梁としての信望を高めたといわれる。

しかし、当時は既に白河法皇院政期に入っており、院と対立する摂関家の武力として仕えていた河内源氏は白河法皇の陰謀により勢力を削がれ、衰退してゆく。

所有していた荘園を没収されたうえ、新たに義家への土地の寄進が禁じられた。

また次男・義親が対馬守に任じられたのは、東国に勢力を扶植した河内源氏を、勝手の異なる西国の国司とすることで失敗を期待したものと思われる。

そのため義家は政治的にも経済的にも苦境に立たされ、最後には九州で乱を起こした義親の討伐の命が父である義家に下るが、その直前の嘉承元年(1106年)7月4日に病没した。

「鷲の棲む深山には、概ての鳥は棲むものか、同じき源氏と申せども、八幡太郎は恐ろしや」(白河法皇・「梁塵秘抄」より)

人物

「天下第一武勇の士」(白河法皇)「武士の長者」(中右記)と評された。また、歌才もあり、千載和歌集に和歌が収録されている。その文武両道の人格は武士の理想として後世も崇拝された。

前九年の役では、甲冑を着た敵を次々と射殺し、後日に清原武則が「君が弓勢を試さんと欲す。いかに」と問うと、甲冑三枚を樹の枝に掛け、一矢でこれを射抜いたとの逸話が、陸奥話記に記されている。

義家の用いた「源太が産衣」と「髭切」は河内源氏嫡子に伝えられる宝となり、後の平治の乱源頼朝が用いる事となる。 東国における武門の習いは義家が整備したといわれ、その名声は武門の棟梁としての血脈としての評価を一層高めることとなった。一方、その名声を恐れた白河法皇によって、次第に源氏への冷遇のきっかけとなり、その凋落は曾孫 源義朝らの平治の乱において窮まることになる。 大正4年、父 源頼義とともに正三位を贈位された。

系譜

先祖
兄弟
子孫

墓所

河内源氏の本拠地だった大阪府羽曳野市壷井に楼門だけが残る源氏の氏寺の通法寺跡近くに、祖父の頼信、父の頼義と供にある。

関連

史料
神社
祭事・催事
TVドラマ

外部リンク

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