山崎二休
表示
この記事のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。 (2014年1月) |
山崎 二休(やまざき にきゅう、天文23年(1554年)-寛永8年(1631年))は、琉球王国の医師。北陸越前の人。号は二休、名は守三。
人物・生涯
越前出身で医師となったが、更に医術を高めるべく修行していたところ、「南海の琉球国には唐渡りの優れた医術がある」と伝え聞き、尚寧王の初年頃(1589年頃)琉球に渡航し那覇に居を構えた。しかし当時の琉球では医術は遅れており、逆にその腕が認められ王の侍医に取り立てられた。
『球陽』の記述では、慶長14年(1609年)の薩摩島津氏による琉球侵攻(琉球入り)にあたって首里城西櫓の防備に就き、法元弐右衛門の部隊を撃退した。和睦成立後、城を出て自宅に帰ろうとして歩いている途中、法元の部隊に捕らえられた。「日本人がなぜ琉球に味方するのか」と問われ、「琉球に恩義があるからである」と返答した。翌日、王は薩摩兵に金品を送って山崎を助命した。王の薩摩行きに同行を志願したが、留守を守るよう諭された。
二休の三男、休意(1611年-1662年、名は守庸、唐名は葉自意)は寛永14年(1637年)より3年間京都に留学し、寿徳庵玄由に師事した。医師としての令名高く、慶安4年(1651年)には知行30石と屋敷を与えられた。琉球の医術は遅れていたために慶長18年(1613年)より薩摩の医師が派遣されていたが、この年に休意の技量が薩摩藩にも認められ以後取りやめとなった。同家は6代に渡り医師を輩出した。
子孫に葉氏伊集家などがある。
参考文献
- 球陽研究会編『球陽』角川書店、1974年。附巻0005号
外部リンク
- 附巻0005 日本山崎二休、克く忠義を操り、以て重罪を累ぬ。〔鄭〕< 球陽附巻1 < 球陽全文検索
- 山崎二休 (やまざき・にきゅう) - 琉球新報デジタル|沖縄のニュース速報・情報サイト
- 山崎 守三 | デジタルアーカイブ福井